Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その八   小鹿田       1991年

災害を乗り越える陶郷

2016年の熊本地震、翌2017年豪雨災害によリ、崖崩れで陶土の採掘不能、唐臼44基の大半が稼働不能、焚き木の松は入手困難等々、最悪の事態を乗り越えて、ようやく9軒の窯元さんが稼働されつつあると知り、心より安堵しました。

ここは江戸中期に日田の黒木重兵衛が小石原の陶工柳瀬三右衛門を招き、土地を提供した坂本家と三家共同で農民の生活陶器を作り続けて来られた貴重な窯場です。福岡と大分の県境に近い山間の地でタイムカプセルのような民窯の姿を今に留める稀有な陶郷です。昭和6年柳宗悦が訪れて以来、民藝の里として世に知られるようになりました。

1991年冬、博多から車を走らせ日田から山間部をひた走りました。ようやく辿り着いた里の入り口に幸運にも茶屋を見つけ、先づは冷えた体と空腹を満たそうと中へ。店番のおばさんの手ほどきで初めて食べた郷土料理“だご汁“と“柚子胡椒“の旨さは今も忘れられません。

集落を散策し始めて驚きの光景に遭遇。巨大な獅子脅しのような物体が幾本も小屋から張り出して、ギーツ、トンと山間に音を響かせています。川音と溶け合って心地よい環境音楽のようです。小屋に入ると、これまた驚きの光景です。気長に赤みを帯た土を挽き続ける水車小屋だったのです。その後、これを唐臼(からうす)と知りました。

周辺は身を寄せるように民家が点在し、庭先にひろげられた筵に所狭しと焼ものが無造作に置かれています。値札が貼られているので、好きなのを勝手に選んでくれといった様子です。正直言って、茶陶や作家ものを見慣れた目にはどれも素朴なものばかりで稚拙にさえ思えました。その中にあって、あっけらかんとした釉薬の透明感と色調の明るさが私の目を惹きつけました。買い求めようにも民家の玄関は閉まっている。仕方なく戸を開けて呼びかけました。男性が出て来られて新聞紙に包むとお金を受け取り、口数少なく家の中へ。この売買形態も農村の野菜直売所のようで鄙びた感いっぱいでした。

近くに煉瓦造りの水簸場と窯らしき施設があり、おばあさんが炊き口からスコップで灰を掬い集めていました。手強い粗土、薪焚き、20日以上築いた陶土、入念な水簸と乾燥、自然な灰釉、作陶共同体ゆえ作家を名乗らず、手間隙かけた手仕事の伝承が小鹿田焼独特の透明感と明るさ、個性に結晶しているように思えました。その良さが近頃ようやく分かるように思えました。

メモ
1.飛鉋 猪口 :寸法(mm): 長径58 x 畳付き径30 x 高さ35 
2.海鼠釉糸切高台ぐい呑み:寸法(mm):長径56 x 畳付き径32 x 高さ43
3.飴釉糸切高台ぐい呑み:寸法(mm): 長径60 x 畳付き径33 x 高さ48
4.緑釉ぐい呑み:寸法(mm): 長径63 x 畳付き径32 x 高さ53 


小石原焼) 1662年(寛文2年)、福岡藩第3代藩主 黒田光之が肥前伊万里から陶工を招いて窯場を開いたのが始まり。小石原高取の影響を受けながら、民藝運動による再認識まで、永らく飛鉋、櫛描き、指描き、刷毛目文様を主に、甕、壺、徳利、皿、土瓶などの農村向け日用雑器が焼き続けてこられた。

小鹿田焼)江戸中期1705年(宝永2年)もしくは1737年(元文2年)、幕府天領であった日田代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興された。山を隔てた小石原より招かれた陶工柳瀬三右衛門と招聘した日田郡大鶴村の黒木重兵衛により始められた。従って、小鹿田焼は小石原焼の影響を強く受けている。陶土は使いづらく、採掘後10日乾燥させて、木槌で粉砕、唐臼で20〜30日搗く。その後、土粒に水を加え、何度も濾して泥にし、天日や窯の予熱で2ヶ月掛けて乾燥させる。体力仕事の土練り、成形は男仕事、釉掛けや窯入れは女性の担当。技法は一子相伝で、谷合の立地条件から生産規模が制約されることもあって、代々家族経営が続いている。2017年豪雨により唐臼44基の6割が稼働不能、焚き木の松は入手困難。前年の熊本地震の崖崩れで陶土の採掘不能。窯元10軒は9軒に(柳瀬2軒、黒木3軒、開窯時に土地提供した坂本家4軒、黒木家の分家小袋家1軒の計10軒が長く続いて来た)。共同窯は近くの5軒で使用。山間の作業共同体ゆえに、作品に銘を入れることを慎み、作家を名乗ることも無かった。(2017年当時)


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