Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行  (旧ぐい吞み旅)

その十二  熊本 健軍(たけみや) 1991年頃

くまモン、小代焼アピールしてネ 

熊本県のやきものは何故かしら焼物関連の書籍、雑誌、特集からも外れてしまう。お隣の佐賀、福岡、鹿児島といったやきもの処に隠れて県外の方にはあまり馴染みがないのでは。
熊本県を代表するやきものといえば、小代焼です(*1)。

1991年、社用のため車で博多から熊本に入った私は、偶々“健軍町”という判読不明な交差点で信号待ちをしていました。その時、街並みからは浮いた100年はあろうかという堅牢な古民家と「健軍窯」という看板が目に留まりました。スマホもPCもない時代です。その後も、そのことが気になっていて、休日に鉄路熊本へ向かいました。熊本駅から市電で車窓を眺めること小一時間、終点健軍町駅に降り立ちました。

店内はまるで豪農の住まいといった趣で、心は押され気味。そこへ、いかにも肥後女性といった飾らぬ快活なおばあさんが先ずは一服とお茶を出してくださいました。出された湯呑にお茶が綺麗に映え、古民家の静寂の中ですっかり緊張はほぐれていました。小代焼というやきものを初めて知った瞬間でした。茶湯と雑器があり、どれも茶褐色の地色に青、黄、白の釉薬(*2)が口縁部から胴や見込みに垂れている朝鮮唐津に通ずる景色です。青小代筒型ぐい呑みと先ほどの湯呑をいただいて帰りました。偶然にも、この窯元こそが明治期に小代焼を復興された近重治太郎氏の健軍窯(たけみやかま)で、先程のおばあさんは治太郎氏の奥様だったのかもしれません。(現在は移転され健軍の南、嘉島町でご子孫が「小代焼たけみや窯」を営まれています。)
その夜は、上通、下通界隈を散策し、焦がしニンニクがたっぷりかかった熊本ラーメンや馬肉、からし蓮根で地酒美少年に舌鼓を打った次第です。

小代焼のふるさと小代山麓北部の窯元さんには残念ながら、伺う機会を未だ逸しております。近年、東京でも若手の「岱平窯井上博樹氏」、「ふもと窯井上尚之氏」の展示や作品に接する機会があり、小代焼の次世代継承に安堵しています。

蛇足ながら、荒尾に接する福岡大牟田駅近くで出会った陶芸家のギャラリーでもとめた小杯も画像に添えておきます。九州男子の面白い方で、褐色釉はご当地三池炭鉱のボタを混ぜたものとのこと、一方の青小代は、造り、釉調も小代焼らしくしっかりしています。

【 メモ 】

(青小代筒型ぐい呑み)
寸法(mm): 長径60 x 畳付き径39 x 高さ70 (内高台7)
箱.箱書き;無

(黄小代湯呑み)
寸法(mm): 長径90 x 畳付き径40 x 高さ57 (内高台9)
箱.箱書き;無

(青小代小杯)
寸法(mm): 長径57 x 畳付き径30 x 高さ34 (内高台4)
箱.箱書き;無

(褐色釉小杯)
寸法(mm): 長径52 x 畳付き径32 x 高さ48 (内高台6)
箱.箱書き;無

(*1)
熊本県北部の玉名、荒尾の両市に跨る小代山麓北部、熊本市一帯に20の窯元が点在しています(令和7年現在)。その効能から「五徳焼」、地名由来の「松風焼」とも呼ばれました。
👉小代焼 窯元の会 https://shodaiyaki.com/
👉荒尾・玉名地域窯元振興会 https://aratama-kamamoto.jimdofree.com/

(*2)
鉄分の多い粗い小代粘土を使い、先ず茶褐色の鉄釉を下掛けし、藁や笹の灰釉を使い分け、流し掛けする。釉薬の配合により青小代、黄小代、白小代に発色する。

【 来歴 】

この地のやきものを振興した加藤清正家は改易、連れ帰った陶工のその後は不明。1632年、代わった細川家に付き従った上野喜蔵(尊楷)の陶工達(牝小路源七、同市左衛門、同又兵衛、葛城八左衛門の4人等)により、1769年初代瓶焼窯が築かれ、1786年現窯跡築窯後も両家持ち回りで使用され、大正時代に閉窯します。当窯跡の近くには、瀬上林左衛門により1836年瀬上窯が築かれ、こちらも大正まで窯煙を上げていました。藩の御用窯として本家一子相伝により生産量も少なく、維新後も命脈を保ちましたが、唐津や有田の流通に押されて藩外にあまり流通することはなかったようです。
明治期に近重治太郎氏、城島平次郎氏等によって新たに復興を遂げ、戦後には民芸の影響も受けつつ今に至っています。


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