Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その十五  沖縄読谷村  2004年

読谷やちむんの里

読谷壼屋焼といえば、 先ず金城次郎(*1)さんを思い浮かべます。次郎さんのやきものとの出会いは、偶然通りかかった渋谷宮益坂の“べにや民芸店”(現在、目黒区駒場)で開催されていた「金城次郎展」を観たことに始まります。
 ためらいのない生き生きとした線刻、南国を思わせる明るい釉色とグラデーション、的確な描写とデフォルメ、まるでピカソのようだと思いました。魚も海老も生き生きと泳いでいるようです。もちろんぐい呑みも並んでいました。しかし、当時の私には1万円を超える「小さなぐい呑み」を求めるだけの勇気がありませんでした。
 後年、上京中に、かねてより訪れたかった新宿若松町の“備後屋”さんへ向かいました。そこは、地下1階から4階まであり、品揃えは民藝品の百貨店ともいえる壮観さで、優品ぞろいに度肝を抜かれた次第です。その一角に金城次郎さんの作品に混じって、あのぐい呑みが陳列されていました。今回投稿した“魚紋ぐい呑み”との再会です。今度は有無もなく決心しましたが、生憎持ち合せが足りず、カードも使えず、取り置きをお願いして帰宅後に至急現金書留で送金しました。間もなく、ご主人の達筆な筆書きの書状が添えられて我が家にやって来たぐい呑みです。

 2004年、読谷やちむんの里を訪れる機会を得ました。里の入り口にいきなり「宙吹きガラス工房虹」のサインが(沖縄ガラスについての旅日記は次回に)。先に進むと、民家らしきゆったりとした家並みが続きます。表札を見ると宮工房(宮城須美子さん宅)、次いで金城次郎氏宅、その次は金城敏男氏宅といった具合で、この一角は金城一門だらけです。工房というよりはご自宅といった様子で、ずかずかと中へ入って行く雰囲気ではありません。諦めて先へ進みました。里の敷地は広大で、かつては一面に砂糖きび畑が広がっていたような丘陵地を想像してみてください。やがて丘陵に赤瓦屋根の巨大な登り窯「読谷山窯」の威容が現れました。その先にもう一つ大きな「北窯」があり、併設の「北窯共同売店」に立ち寄りました。窯出しされた皿、鉢といった日曜雑器が所狭しと積まれています。マイぐい呑みには出会えず、皿や鉢類を買い込みました。

 もう終わりと思いきや、その先のコテージ風の現代的な家屋に差し掛かりました。庭先には何匹もの猫が恐れる様子もなくのんびり寛いでいました。大嶺實清(*2)の表札があり、ギャラリー併設らしく中へ入ってゆきました。中は現代的で住み心地良さそうな空間で、ところどころに作品が置かれています。声掛けしてもどなたも出て来られません。展示されていた作品をじっくり拝見することが出来ました。
 これまで見て来た“やちむん”とはまったく趣を異にした現代的なフォルムで、恐らく抱瓶(だちびん)をシンプルな直方体に再構成された酒注様のフォルムと、シャープで抽象的な赤絵の線描の美しさにしばらく立ち尽くしていました。辺りにまったく人の気配は無く、夢見心地の不思議な体験でした。猫達に別れを告げてその場を立ち去りましたが、その後もあの作品の美しさは今も眼に焼き付いています。
 後年、大嶺實清氏が何者であるかを知るに及んで、今一度沖縄の工房にお伺いしたい思いが募ります。

【 メモ 】
(魚紋ぐい呑み:金城次郎作)
寸法(mm): 長径70 ・ 畳付き径37 ・ 高さ45 (内高台6)

(魚紋平盃:金城須美子作)
寸法(mm): 長径80 ・  畳付き径45 ・  高さ37 (内高台12)

(壼屋焼カラカラ)
寸法(mm): 長径90 ・ 短径40 ・ 畳付き径65 ・  高さ90 (内高台8)

(*1) 金城次郎氏(2004年12月24日92歳ご逝去)、沖縄初の人間国宝。1925年、新垣永徳氏に師事。同年、浜田庄司氏と出会い意気投合し、民藝運動を通じて柳宗悦氏の影響を強く受けます。第二次世界大戦中は制作活動を中断しますが、戦後1946年壼屋で独立。1972年沖縄返還の年、かねてからの煙害問題により登り窯に拘る陶工達が那覇市壼屋を去ります。その中心人物であった金城次郎氏は招きにより読谷村に拠点を移します。その地は“読谷やちむんの里”として現在に至っています。壼屋焼の上焼で民芸の精神に沿った日用雑器を制作され、海老や魚を描いた魚紋は氏の代表作です。ご子息や弟の敏雄氏のご子孫を含め金城一門と呼ばれています。私見ながら、その作品群から氏は沖縄壼屋焼を世界に誇れる唯一無二のやきものに昇華させた天才的な陶工であったと思います。

(*2)  大嶺實清氏、1933年沖縄生まれ。小学校教師を辞し、画家を志して京都に向かいます。現代アートに関心を寄せ、前衛美術「具体」や陶芸集団「走泥社」に傾倒して行きます。大学で哲学を学び、琉球王朝時代のやきものとの出会をきっかけに、卒業後に沖縄に戻り陶芸の道を志します。 1970年、首里に「石嶺窯」を、沖縄の“ゆいまーる(相互扶助)”精神により氏を含む4人の陶芸家で1980年に共同窯「読谷山窯」を築きます。86年には開学と共に沖縄県立芸術大学教授に就任。退官後、2002年から2003年まで学長を務められ、今日に至ります。
沖縄のやきものの伝統をモダンで美しいフォルムと色彩の造形に昇華された巨匠です。


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