やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その十八 香川県 高松・志度 2001年頃
讃岐の理平と源内焼







かねてから四国という島を一周したいと思っていました。高松で車をレンタルして時計周りで、さあ出発です!!
先ずは栗林公園の「讃岐民藝館」へ向かいました。玄関で“ほうこさん(奉公さん)”人形のお出迎えにビックリ。こちらは讃岐の郷土工芸に特化するというポリシーから、多種多様な讃岐の工芸に接することが出来、特に、香川漆器の育成に力を入れておられるようでした。貴重な理平焼、屋島(八島)焼、讃窯の古陶を拝見することが出来ました。香川県は奈良平安と須恵器の調租大産地で、陶土に恵まれるも、その後に大きな窯業地も栄えず、この旅では予定にない小豆島「神懸焼(寒霞渓焼:かんかけやき)」(*1)のぐい呑み頂いてその場を去りました。栗林公園を散策後、公園近くの「理平焼」窯元に伺いました。
理平焼(*2)は高松藩御庭焼として今日に至る雅な京焼系色絵茶陶です。栗林公園北門前の閑静な住宅地にあり、当時は目立った印もなく、ようやく探し当てました。十四代紀太理平洋子氏が出迎えてくださいました。十三代理平克美氏が48歳で早逝され、京都より嫁がれた洋子氏の40歳からの奮闘は如何ばかりかとお察しいたします(現在、ご長男信吾氏が十五代に向けてご修行中のようで安堵)。伺った時は生憎作品も少なく、ぐい呑みは無く、茶碗をいただいて辞しました。
志度の「平賀源内先生遺品館」に伺いました。瀬戸内の穏やかな湾にあり、四国霊場八十六番志度寺の町です。顕彰会各位によって大事に源内遺品が保存展示されています。平賀源内は1728年(享保13)に当地で生まれた俳人・滑稽小説・浄瑠璃作家。また、医学・本草学(薬学)を修め、磁針器(外科手術器具)、量程器(万歩計)、エレキテル(起電機)、火浣布(石綿耐火布)を作成、日本初の物産博覧会を発案、紀州産物誌・物類品しつを発刊、西洋画の教授、伊豆・秩父・秋田の鉱物採掘等々、杉田玄白、司馬江漢とも親交のあった多能の天才でした。中でも、二度(1752、1770)にわたって長崎遊学し、殖産の窯業振興を説いています。1771年、天草代官に提出された「陶器工夫書」は陶法伝授書で、源内プロデュースにより、志度で焼かれたのが交趾風「源内焼」です。後にその陶法を発展させ赤松民山の「民山焼」、堀尚八の「尚八焼(なおはちやき)」、富永庸八の「庸八焼」、四代紀太理兵衛の「富田焼」へと波及していったようです。源内焼がどのような焼物であったかは画像を参照ください。
当然のことながら、幾多の窯場が勃興し、絶えていったことか、やきもの旅は楽しさの半面、先人陶工達の奮闘と哀切の歴史を偲ぶ旅でもあります。
【 メモ 】
(理平焼茶碗)
寸法(mm): 長径127x 畳付き径47 x 高さ63(内高台8)
(神懸焼ぐい呑み)
寸法(mm): 長径58x 畳付き径28 x 高さ44(内高台0)
(*1) 神懸焼(寒霞渓焼:かんかけやき):二窯あり、「神懸焼窯元」(現在、五代秋光)は明治の初め、偶然来島した俳人秋光が小豆島神懸山(寒霞渓)の風光明媚を愛で、麓に築窯するも上手くゆかず、明治中頃、源内焼の流れを汲む陶工・久保祖舜の伝授を得て研究を重ね、神懸焼を造ります。中腹の石門洞付近に茶屋秋光亭を設けて楽焼をベースとした茶陶を焼いて今日に至っています。
もう一つの「幻煌焼神懸窯(かぎひろやき・かんかけがま)」(現在、五代室井香悦・六代貴峰)は、明治8年、一次途絶えていた神懸焼を、加賀の九谷陶工・初代香悦が来島し、独自の流れ釉薬を完成させ、今日に至っています。
(*2) 理平焼:(別名:利兵衛焼、高松焼、お林焼、石清尾焼、稲荷山焼)は、初代森島半弥重芳は豊臣秀頼に仕えた千三百石の旗本で、大阪の陣後、故郷信楽に閉居するが、雲林院某について陶技を学び、武士を捨て焼物を家業とした。その子森島作兵衛は京に出て粟田口にて作陶していたが、正保4年(1647)水戸光圀兄君の高松藩祖松平頼重公により招かれ、霧米15石、十人扶持と現在地付近に屋敷を賜り、初代紀太理兵衛重利と改名して、高松藩御庭焼として維新まで続く。明治3年、理兵衛焼を理平焼と改め、平成6年には松平頼武氏より賜った高(破風高)理平の字による印を使用し、現在十四代紀太理平洋子氏に続いている。
参考文献
・理平焼の由来(十四代紀太理平窯元の栞)
・(財)平賀源内先生顕彰会「平賀源内」
・ともさんの焼物・骨董紀行
