Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その二十三    山口県 萩市      1997年

山陰やきもの旅 ―茶陶・萩焼―

1997年、私の様な初心者にとって、良き手引となっていた「季刊陶磁郎」(第10号)の特集“山陰道やきもの歩き”に好奇心を掻き立てられました。当時の私にとって、山陰地方の石見焼(いわみやき)はまったくのノーマーク・焼物空白地帯だったのです。当時島根県だけでも約70軒の窯元が稼働していたのですから驚きでした。早速、勤めの夏季休暇を利用して家内と焼き物旅に出ました。

 当時の住まい横浜から石見の地は遠く、先ず交通の便に苦慮しました。出身地京都始発の山陰線でも出雲から先は未踏の地、出雲大社ですら遠く感じたものです。折角なら、知名度抜群の「萩焼」を探訪して山口、島根(石見・出雲地方)、鳥取(因州)経由で戻るというプランを立てました。コストと時間を考えて、タフですが“東京発—萩行き”という夜行バスを探し当てました。夜出発、翌朝萩に到着という次第です。
 いざ東京を出発、山口県防府あたりで夜明けとともに目が覚めました。まだ、瀬戸内沿いを走っています。漸く、中国山地に向かい山口市を通過、聳え立つカルスト地形奇岩の間をバスは抜けてゆきます。おそらく秋吉台近くを走っていたのでしょう。朝8時、最初の目的地萩に到着しました。そこは、小さな古びたバス駅舎がポツリ建つ、空の広い田舎町でした。
 
 先ずは、予め調べておいた萩焼専門店「ギャラリー彩陶庵」へ下調べに歩き始めました。斎藤ご夫妻が萩で活躍される若手作家作品を扱われるギャラリーでした。そこで勧められた三輪栄造作「萩ぐい呑」が気に入り連れ帰りました。⦅栄造氏は人間国宝11代三輪休雪(壽雪)氏のご次男で、10代休和氏のご養子となられていましたが、兄の龍作氏(現12代龍氣生:りゅうきしょう)、弟の和彦氏(現13代休雪)が当時共に革新的なオブジェを志向されていたため、12代休雪を襲名されてもおかしくない空気でしたが、1999年7月惜しくも早逝された萩焼作家です。求めた萩ぐい呑みは氏のお人柄を反映してか優しい休雪白がかかり、使い込んだ後は特有の貫入が入りました。⦆

 ギャラリーを後にして、近場の「石井茶碗美術館」に伺いました。茶碗専門美術館で、年季の入った茶碗の大小数々に圧倒された記憶が蘇ってきます。
 指月山萩城址に向かって、幕末を偲ばせる武家屋敷の白壁と石垣の路を進むと、前方に「波多野指月窯」の看板(敬愛される榊莫山氏の書)が目に留まりました。以前に読んだ陶芸家集で注目していた波多野善蔵(はだのぜんぞう)氏の工房兼展示室でした。善蔵氏はお仕事中で奥様が対応してくださいました。ぐい呑はどれも白萩釉と陶土の織り成す土味が素晴らしく、その中の一つは、薄っすらと掛かった白萩釉が枇杷色に映え、井戸様の高台は赤みを帯びた褐色の土見せとなっていて、ざっくりとした土味と貫入の景色は絶妙でした。清水の舞台から飛び降りる気持ちで連れ帰ることにしました。(今にして思えば、波多野氏は唐津のご出身で、12代中里無庵氏の陶技に感銘して陶芸を志し、唐津、有田、そして萩の吉賀大眉氏に師事し独立。どこか唐津焼に通じる作風に思えます。)

元来、島根から鳥取を目指す旅ですから、幕末吉田松陰やその教え子達の史跡を巡りたいところですが夏季休暇に時間の猶予はありません。焼物旅に徹して、萩城址の「萩焼資料館」、タクシーに飛び乗り「吉賀大眉記念館」を観終え、向かった先は兼田昌尚氏でした。当時、“刳り貫き”技法で頭角を現されていた氏に是非お会いしたかったからです。私は、鬼萩とは異なる現代的な造形感覚を持った新しい萩焼に着目していました。幸運にも氏にお目にかかることが出来、不躾なお話もしたかと思いますが、無事今回の「萩刳貫ぐい吞」をいただいて帰りました。(氏は東京教育大、筑波大学院で彫塑を専攻され、刳り貫き技法に辿り着かれました。「轆轤だけでは表現の限界がある。自分なりの造形を目指してみようと思って」といきさつを語られています。現在、江戸後期より約200年続く天寵山窯第八代を襲名され、窯主のお仕事と作家活動を併行しておられます。連れ帰ったぐい呑を観るにつけ、視る角度により多様なカタチに変化する景色の楽しさ・美しさには格別のものを感じます。)
 

私事ですが、初めて焼物に感動したのは小学校の図工の教科書に掲載された光悦の黒楽茶碗でした。授業の粘土工作も、私だけが写真をお手本に、訳も分からず茶碗を造っていました。何故、感動したのか、今にして思えば、ただ“キレイでカッコよかった”のだと。その後、「存在感のある恰好の良いデザイン」の茶陶にも関心を寄せて来ましたが、茶道は未だ門外漢です。

茶陶としての歴史をたどった“絵のない”、“白っぽい”萩焼にも私にとって存在感のある格好が良くて、おもしろいものに出会えた旅でした。

【 メモ 】

(指月窯波多野善蔵作 萩ぐい吞)
寸法(mm): 長径75x 畳付き径30 x 高さ51(内高台12)
 
(天寵山窯八代兼田昌尚作 萩刳貫ぐい呑)  
寸法(mm): 長径65x 畳付き径55 x 高さ65(内高台0) 

(三輪栄造作 萩ぐい呑)
寸法(mm): 長径65x 畳付き径40 x 高さ52(内高台5)
 

【萩焼の特徴】

〇『萩焼の最大の特徴に、白い地肌に細かく入った貫入がある。これは土と釉薬との収縮率が違うために、焼成時にできる細かなひび割れ。この貫入を通して、吸水性の高いざんぐりとした土に茶などが入り、使っていく内に器の色合い、景色が変化していく。「萩の七化け」、「茶馴れ」といって、特に茶道の世界で珍重され、「一楽、二萩、三唐津」とまでいわれる。』

〇原土

大道土(だいどうつち):防府市台道(だいどう)、山口市鋳銭司(すぜんじ)付近から採取した砂礫の多い白色粘土で原土の主流。

見島土(みしまつち):萩市の沖合の見島に産出する鉄分の多い赤土で、軽くて粘りがなく、大道土と共に欠く事の出来ない土。

金峰山土(みたけつち):萩市福栄(福川金峰)の白土で、粘り気のまったくないカオリンの一種。普通大道土に10~20%混入して耐火度を高めるもの。
以上が共通して使用され、その他窯元所在の地土をそれぞれに使用。

〇釉薬: 透明釉は長石粉に木灰をまぜたもの。白釉は透明釉にさらに藁灰を加えたもの。(深川焼では古くは、飴釉、鮫釉、なまこ釉、黒釉との掛け合わせが行われた。)

〇焼成: 1200度と低い。

【萩焼の起源】

〇「毛利輝元をはじめとする毛利一族の武将たちがいずれも名だたる大名茶人(小早川隆景、吉川広家、毛利秀元等)であったことが、茶陶萩焼発祥の精神的な土壌を形成していた」。利休、今井宗久、津田宗及、江月宗玩といった名だたる茶人とも親交があり、特に織部との親交が初期萩焼に反映されていると考えられている。

文禄の役(1592)、豊臣秀吉が各大名に「朝鮮より陶技の保持者を招致するよう」指令した。総帥 毛利輝元が進軍の際、開寧の北西 朝鮮王朝「官窯鶏龍山」があり、高麗焼物細工累代家伝の秘法を保持する「李勺光(りしゃっこう)」が大坂へ連行され、輝元に預けられる。その後、輝元の領地安芸へ送られる。その後、「李敬(りけい)」が慶長の役において朝鮮から連行される。その後、関ケ原の合戦で西軍総大将の輝元は長門・周防2か国36万石に減封、長門国萩へ移封される。
 李勺光、李敬も萩へ移住し“松本村中の倉”に築窯。萩焼は長く「松本焼」と呼ばれ、李勺光は御用焼物所の陶工を統率する「惣都合(そうつごう)に任じられる(1625)。その後、嫡男は「山村新兵衛光政(松庵)」を名乗る。
 3代「山村平四郎光俊」の時、“長門の深川村三之瀬(ふかわむら・そうのせ)”の焼物所惣都合に任じられる。「蔵崎五郎左衛門」、「同勘兵衛」、「赤川助左衛門(後に“田原陶兵衛”家系)」、「同助右衛門(後に“新庄助右衛門”家系)」、地元住人「坂倉九郎右衛門(後に“坂倉新兵衛”家系及び“坂田泥華”家系)」の5人の弟子を率いて深川へ移住、三之瀬焼物所「深川焼」を開窯する。
 5代山村源次郎光長の養子源右衛門は刃傷事件(1774年頃)により見島へ流刑となり、李勺光の家系は断絶する。
 一方、李敬は「坂本助八」を名乗り、後に「坂助八」に改める。その後、「高麗左衛門」に任じられ藩に召し抱えられ(1625)、今日の「坂高麗左衛門」に至る。

他家の系譜】
〇三輪家: 永正年間(1506~1520)、大和三輪の人、源太左衛門が萩の小畑小丸山に開窯し、その曾孫の三輪忠兵衛利定(休雪)が長門深川に移住した山村家一党の後任として、五代毛利綱広より”舜陶軒休雪”の号を賜って、寛文三年(1663)松本御用窯の御雇細工人として召し抱えられる。同時期に召し抱えられた無田ケ原の佐伯半六(後に林半六家系)の窯を踏襲し、今日に至る。また、初代休雪は、藩命により京に上り(1700)、楽焼を習得して帰郷。以後、4代休雪も京に上り(1744)、三輪家歴代は楽焼をお家芸とする。楽焼の導入は李朝風、織部風の初期萩焼に新風を吹き込む。
〇兼田家: 肥前の近藤半平を祖とし埴田焼を興す。2代兼田三左衛門重治の時、萩藩より天寵山(磁器窯に転換)の監理方を命じられ(1833)、後に払い下げを受ける(1844)。明治中期頃には萩焼に移行。現8代兼田昌尚と今日に至る。

萩焼派生の緒窯】

〇「松風山焼」 長府支藩(下関) (1657)、深川焼の赤川助右衛門の家人が派遣され開窯。

〇「楽山焼」 松江藩 (1677)、蔵崎五郎左衛門または勘兵衛の子、倉崎権兵衛が松江藩主松平綱隆に懇願された萩藩主毛利綱広の命で2名の陶工を率いて松江へ出向する。その陶工の一人が楽山焼2代加田半六。権兵衛は「伊羅保の権兵衛」の異名があり、今日の楽山焼の見どころ伊羅保となっている。

〇「小畑焼」 萩本藩 (磁器窯:1823) この地は古くから良質の陶土に恵まれ、当初は民窯として日用雑器を焼いていたが、萩藩の天保改革を行った村田清風の殖産興業政策に基づき藩の御物産方の支配下に置かれ、磁器窯に転換される。寿丘山、西山、天寵山、素玉山、泉流山、大向山、永久山の7つの磁器窯が出現。江戸末期に衰退。
〇「宮野焼(松緑焼)」(磁器窯)明治25年(1892)、三輪家8代雪山の許で修行した名工の大和作太郎により開窯。その子孫によって山口県域に広がり「山口萩焼」として定着する。
 

参考文献
「萩焼400年展―伝統と革新」 河野良輔、榎本徹 監修 朝日新聞社文化企画局西部企画部 編集・発行 2001
「美しい和食器の旅 萩・備前・砥部およびその周辺」 清水元彦編 リブロポート刊 1997「天寵山萩焼由来書」 萩焼窯元天寵山栞
「日本の藩窯 西日本編」 彦根城博物館編 彦根市教育委員会発行2001


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