やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その二十四 島根県 江津市 1997年
山陰の旅―民陶・石見焼(いわみやき)













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萩から石見地方(*1)のど真ん中“江津(ごうつ)”まで、鉄道を使い特急に乗り換えても、ゆうに3~4時間はかかる距離です。車窓からはどこまでも日本海の海岸線が続く長い旅でした。ただ驚いたことには、山陰の先入観を一転させる、この地方特有の“赤褐色の屋根(*2:石州瓦)”が車窓を横切ることでした。時節は夏でしたから、陽光降り注ぐ青い空、穏やかな日本海の海岸線、人家の赤い屋根は、大げさではなく南仏を旅しているような気分にさせてくれました。
ようやく江津駅に到着、タクシーで「宮内窯」を目指しました。西方約6キロの海辺近く、外壁に大きく「石州 宮内窯」と書かれた古民家の看板が目に飛び込んで来ました。広い庭先に所狭しと、壺、水甕、傘立てといった石見焼の大物陶器が並んでいます。その中に「雑誌陶磁郎10号」で紹介された蓋付き壺や擂り鉢が並んでいました。小石原様の“刷毛目文様”に“緑釉”が流し掛かっており、その民陶らしい“用の美”と“色明るさ”が、この地から生まれたぞと言わんばかりで、一目惚れでした。明るく気さくな奥様とご主人の宮内謙一氏が対応してくださいました。(奥様)「この辺りは、暖流(対馬海流)が流れているので、冬も雪は少ない」と意外な発言。(謙一氏)「九州の小石原で修行して、技術を磨いた」との事、やはり刷毛目文様は小石原直伝かと納得。ご子息の孝史氏やお孫さんのお話など伺った後、作品を拝見しました。大物・中物陶器が主流で、酒器といった小物は数少なく、残念ながらお気に入りのぐい呑みに出会えず終いでした。前述の擂り鉢大・小や石灰釉の白い蓋物と大皿をいただいて宮内窯を後にしました。
次にタクシーで向かったのは、江津駅の東方約10キロ、後地町の「石州嶋田窯」、「枡野製陶所」でした。散策がてら近所でタクシーを降りて歩き始めました。海岸近くの国道9号線から雑木林の続く丘陵の一本道をゆっくり上って行きます。先ずは「石州嶋田窯」(昭和10年創業)に到着です。窯元展示場の中をのぞきましたが、誰もいらっしゃいません。盗難の恐れもないのか開けっ放しで、のんびりとした空気漂う広い直売所の様です。作品を拝見しましたが、石見焼らしい民陶雑器類が大半で、目ぼしい酒器は見つけられず、惜しくもその場を去りました。
次に目指すは「枡野製陶所」(大正6年創業)です。元来た道を少し戻って、分かれ道をまた上って行きました。持参の地図を頼りに「枡野製陶所」らしき古民家を見つけましたが、看板が見当たりません。かろうじて広い庭先に石見焼が積まれているのを発見しましたが、またもやお留守の様でした。困り果てた目線の先、道を少し上ったあたりに事前情報にない「秀山窯」の看板を見つけました。「とりあえず行ってみよう!」、そう思うや足は自然に坂上へと向かっていました。
そこには、古民家と年季の入った長い作業棟らしき建物がありました。「石見秀山焼窯元」さん(昭和30年創業)との出会いでした。お宅から60歳代と思われる女性が出て来られました。秀山焼初代山下数馬氏の奥様でした。兎に角、飾らない快活で人見知りのない方で、まるで昔からの知り合いの様に接して頂き、すっかり心は解きほぐされてゆきました。まるで親戚のように部屋に上げていただき、色々なお話を伺うことが出来ました。ご主人数馬氏は、江津地方で盛んに作られた石見焼の主力商品 “はんど”(*3)の元職人で、石見焼の持つ素朴な伝統の上に、工夫改良を重ねて来られた土質と釉薬が放つ、独自の色調と風合いを生かさんと後に茶湯に転じられたとの事。また、ひとり娘の時子さんは幼少の頃より、歌うことが大好きで、デザイン系の学校を出て秀山窯二代となられてからも、演歌歌手としてミノルフォンレコードよりCDデビューの実力派。石見・出雲メディアで活躍されていることを嬉しく語られていました。今で言う“歌手と陶芸家の二刀流”です。現在も地元ケーブル局や秀山窯古民家ライブ等でご活躍の様子、FaceBookで嬉しく拝見しました。是非共、ご贔屓に願います。
訪問時、時子さんは出雲市のギャラリーで開催中の島根窯元・女流陶芸展「陶花婆展」に在廊中との事、翌日伺うことに決めました。
帰り際に、「主人に会ってゆかれますか」と勧められ、別棟で轆轤作業中の数馬氏にご挨拶することが出来ました。石見焼陶工らしい剛直で寡黙なお人柄とお見受けしました。
山下数馬作品の特質は、石見焼らしい素朴さと温かさに加え、鍛え上げた轆轤技術と工夫改良を重ねられた独自の釉薬が生み出す、黄色と白銀の枯雅な景色にあります。年を経て、今回秀山焼の独特な美しさを再認識することが出来ました。
一方、時子さんの作風は、数馬氏とは趣を異にして、透明釉の薄っすら掛かった部分は地土が透けて見え、厚く掛かった部分は薄紫がかった白釉となり、女性らしい優しい釉調とフォルムが見所です。時子さんと陶花婆展でお会いした際、連れ帰った酒盃(秀山時の刻印)の写真を添えておきます。
また、一緒に連れ帰った可愛い飯碗たちは長年の使用に耐え、今も現役で活躍しています。
【 メモ 】
(秀山窯初代 山下数馬作 黄釉ぐい呑み)
寸法(mm): 口径63x 底径39 x 高さ57(内高台8)
(秀山窯初代 山下数馬作 白銀釉猪口)
寸法(mm): 口径53x 底径33 x 高さ59(内高台0)
(秀山窯二代 山下時子作 灰釉酒盃)
寸法(mm): 口径70x 底径32 x 高さ37(内高台8)
(石州宮内窯 擂鉢大小、白釉鉢)
(*1) 石見地方:島根県西部の益田市から浜田市、江津市、大田市までを言い、今も石州と呼ばれる。東隣の出雲市、松江市、安来市は出雲地方、雲州と呼ばれ、その他に隠岐地方、隠岐国がある。
(*2) 石州瓦:石見地方、主に江津市辺りで生産される釉薬瓦で日本三大瓦の一つ(他に愛知県三河の「三州瓦」、兵庫県淡路の「淡路瓦」)。1300度の高温で焼成される石州瓦は、同地で産出する高耐火度の「都野津陶土(つのづとうど)」を、松江市宍道で産出する凝灰質砂岩「来待石(きまちいし)」の「来待釉」がコーティングし、磁器様に固く焼締まり、防水性が高く、寒冷による水分の凍結膨張によるひび割れを防止する。そのため日本海側の豪雪地帯や北海道寒冷地にも普及。現在、全国20%のシェアを占める。鉄分を多く含み、特有の赤褐色に発色することから「赤瓦」とも呼ばれる。
(*3) 飯銅(はんど(う)): 台所の貯蔵用水甕および漬物、味噌などの醸造器。当地の来待釉を掛けた赤褐色の大型陶器は高い耐久性、防水性、耐酸性ゆえに、江戸末期より北前船で、山陰地方から日本海沿岸一帯、北は北海道まで出荷され“石見丸物”の名声を博した。生活必需品であった民窯の飯銅は太平洋戦争前まで盛況に推移した。飯銅または飯胴、半銅、半斗とも表記。石見焼緒窯は、元は石州瓦や飯銅をはじめとする大型雑器の窯であった。
石見焼の沿革・特徴
18世紀中頃から石見地方で本格的な焼き物が作られるようになり、最初は片口や徳利等の小物製品・その後大型の「甕」が作られた。特に「水甕」は江戸末期には江津の波子浦(はしのうら)から北前船により全国に出荷されていた。
明治維新後も藩窯の衰退に対して、その豊富な原土・来待石の埋蔵量、防水・耐久・耐酸の優れた特性、北前船の築いた海運流通を利用して、大正・昭和の戦前まで石州瓦と共に日本海沿岸、北海道にまで広く流通する。
昭和に入り、大物陶器生産に低迷の兆しが見え始めた頃、民藝運動の柳宗悦、河井寛次郎(安来出身)、吉田璋也(鳥取出身)等が“民藝の新作”を促す「新民藝」運動を起こし、その指導に山陰各地を奔走する。やがて出西、石見、布志名、母里、牛戸といった窯場から新民藝に共感する若き陶工達が現れ、運動は山陰地方から倉敷、益子と拡がり、戦後には松本、弘前など各地に伝播していった。
戦後、水道やプラスチック容器等の普及により、主力の大物陶器が売れなくなり、培った伝統の技術は漬物用の甕や傘立て等のインテリア製品に引き継がれるが、かつて約70軒を数えた窯元の老齢化が進み、日本有数の登り窯群もガス窯へと減少の一途をたどっている。今日、新たな模索を必要とする大きな転換期に差し掛かっているように思われる。
参考文献
「季刊陶磁郎10」 双葉社刊 1997.5
「やきもの紀行 出雲・石見・隠岐の器をたずねて」 ワン・ライン刊 2006.1
「民藝の教科書① うつわ」 久野恵一監修 萩原健太郎著 グラフィック社刊 2012
