Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その二十六 島根県 松江市 1997年

出雲焼 ― 楽山窯と布志名焼(茶湯編)

 松江に一泊して翌朝、松江城に向かいました。お城周辺を散策中、茶店でこの地方の郷土食「ぼてぼて茶」をいただきました。先ず、“ぼてぼて茶碗”という托鉢僧の鉄鉢様の器に、この地方の“番茶”と“茶の花”を煎じたお茶を注ぎ、塩を付けた茶筅で抹茶のように泡立てます。十分に泡立ったその中に、別の器に添えられたご飯や煮物類を加えて飲むというよりすすり込といった、お味は好きとも嫌いとも言い難い、茶漬けとも飲み物とも言えない食物でした。(この地の労働者がファストフードとして食したとも、“不昧公”(*1)が飢饉の際に奨励した非常食とも諸説あるようですが、沖縄の“ブクブク茶”とよく似ており、こちらは茶葉の代用で“こうせん”を使用したのが始まりとか。下々には手に入らなかった碾茶の代用に番茶を使って、茶の湯を模した庶民の工夫かもしれません。)
 お城の御堀端にある「田部美術館」で茶の湯の名品を鑑賞。(後年、取引先で知り合ったごく普通の女性が松江育ちで、一般的に茶の湯が盛んな土地柄であることを知らされました。)

 この地を訪れて、関心を寄せていたことは「“布志名焼”とはいったいどのような焼物なのか」ということでした。その源流は、萩より松江に招聘された「倉崎権兵衛」による「楽山焼」(*2)に始まるということで、萩市街の西方、“楽山公園”山麓に楽山焼11代長岡住右衛門空権氏を訪れました。閑静な住宅街に御屋敷を構えておられました。長い石段の先に武家屋敷門が建ち、その先に母屋があるようです。家内と私はその格式に圧倒され、石段を上がることさえ躊躇しましたが、遥々旅して、こんな機会も二度ないと勇気を奮い起こして石段を上がってゆきました。門をくぐると、そこは眺望の良い高台になっており、手入れの行き届いた広い敷地内に母屋を訪ねました。家人らしき女性が迎えてくださり、数寄屋造りの座敷に通されました。床の間の棚に茶碗が数点並んでいました。海老絵の茶碗と伊羅保写しの茶碗が眼に飛び込んで来ました。特に伊羅保写しは、その砂混じりのざらついた土肌が荒々しく、これまでに見た伊羅保写しの中でも鋭く、現代感覚を持つ逸品でした。(後年、初代が“伊羅保の権兵衛”の異名をとったお家柄であることを知りました。恐るべし、楽山焼) しばらくして、先程の女性が現れ、無言で付き添っておられましたが、とても我々の手の届く代物ではないことを悟った私は「また、改めてお伺いいたします。」と早々にその場を退散しました。石段下で家内と胸を撫で下ろしたことも今となっては良き思い出です。

 その夜は、宍道湖畔の居酒屋で“宍道湖七珍(鱸、モロゲ海老、鰻、アマサギ、白魚、鯉、シジミ)”とはいきませんが、美味い地料理を肴に、地酒に舌鼓を打った次第です。夕景だった大橋河岸もとっぷりと暮れて、「松江はいいね!!」と言葉を交わしながら閑な月夜の道を宿へと戻って行きました。

 翌朝、向かったのはその名の由来地、「布志名焼雲善窯」(*3)でした。雲善窯さんの元祖「土屋善四郎芳方」は一時楽山焼5代を継いだ名工で、黄釉地に交趾文様の色絵作品を田部美術館で拝見した後でした。善四郎が藩命でこの宍道湖畔に移ったため、その跡を摂った楽山焼長岡家とは遠戚にあたります。宍道湖畔に雲仙窯の看板が目立つ、展示販売と工房を兼ねた新しいお宅を訪ねました。「9代土屋善四郎幹雄氏」と奥様が迎えてくださいました。当代の優しいお人柄と気さくな奥様とでしばし談笑の後、作品を拝見しました。その当時は、江戸期の黄釉の作はなく、京焼様の雅な茶湯が並んでいました。特に大根絵や海老絵の茶碗が美しく目に留まりましたが、目指すはぐい呑みです。ぐい呑みは種類も少なく、大根絵と錆絵水車の2点で迷いました。大根絵が良かったのですが、茶碗のような美しい青が施されておらず、茶碗に比べ色数も少ないので水車の方を連れ帰りました。(後に、不昧公好みの縁起物大根絵が代表作と知り、いまだに口惜しさが蘇ります。現在は土屋知久氏と共に作陶精進されているようです)
 
 
現在、この地には民藝の窯元さんが多く、次回は民藝の布志名焼を巡ってみたいと思います。

 【 メモ 】
(土屋雲善造 錆絵酒呑)

寸法(mm): 口径63x 高台径28 x 高さ48(内高台4)

(*1)不昧公(松平治郷)
 関ケ原合戦以降、中国地方の覇者であった毛利家は周防・長門2か国に、また吉川家も岩国に移封された。その後、浜松より横尾氏がこの土地に移され出雲富田藩(いずもとんだはん)を興す。山城であった月山富田城から平城を求めて、当時大橋川を挟んで白潟郷と末次郷からなる寒村であった地に5年がかりで松江城を築き、松江藩が成立した(1611)。
 その後、横尾氏に跡継ぎなく、若狭小浜藩より京極氏が入部(1634)するが、またもや跡継ぎ問題で播磨龍野藩に移封、信濃松本藩より寛永15年(1638)、家康の孫である松平直正が転封となる。
 元来、この地は肥沃ではなく、苦しい財政状況であったが、木蝋、朝鮮人参、木綿、取り分け古代より盛んであった“たたら製鉄”に力を注ぎ財政再建を図る。中でも、7代藩主“松平治郷”(はるさと:1751-1818)、号“不昧(ふまい)”は治水工事、殖産興業で財政再建を行う一方、大名茶人“石州流不昧派”の祖として、今日も愛される松江中興の祖であった。その後も山陰地方の文化・経済の中心として繫栄し今日に至る。
 
 (*2) 出雲焼楽山窯
 蔵崎五郎左衛門または勘兵衛の子、倉崎権兵衛重由が松江藩2代藩主松平綱隆に懇願された萩藩主毛利綱広の命で、2名の陶工を率いて松江へ出向・開窯する(1677)。権兵衛は「伊羅保の権兵衛」の異名があり、今日の楽山焼の見どころの一つ“伊羅保写し”となっている。従者の一人が楽山焼2代加田半六(1709没)。その後、半六の子(3代、1743没)、孫(4代、1777没)と続くが不振となり(下手半六とも。4代までの窯場跡は不明)、40年以上の中断を経て、7代藩主松平不昧の命を受けた長岡住右衛門貞政(楽山窯5代、1829没)により現在の松江市街西方の楽山公園山麓に築窯、今日に至る。6代長岡住右衛門空斎、7代同空入、8代同庄之助、9代同空味、10代同空処、11代同空権、12代同空郷(当代)、13代空和(次代)と松江不昧流と共に今日を歩む。
 私見ながら、初代権兵衛以来の萩焼と並ぶ小砂混じりの伊羅保写し、高麗写しのざらついた土味は、荒々しくも洗練された現代アートに通じる独特のテクスチャーを感じさせて素晴らしい。また、おそらく江戸中期の不昧公以降の趣味か、京焼を意識した精緻華麗な色絵にも多くの優品を生み出している。ここでも幸か不幸か、地勢的な関係で、その文化と価値が充分世に伝わっていないと考えるのは私だけだろうか。

(*3) 布志名焼 雲善窯
 初代土屋善四郎芳方は、松江城下横浜町で土器屋(かわらけや)を営んだ善右衛門の子で、宝暦6年(1756)、6代松江藩主(むねのぶ)より扶持米と苗字帯刀を許され、茶道支配坊主並みを仰せ付けられる。楽山窯御用を25年間務め、楽山焼5代として名品を残し、名声を博した。その後、安永9年(1780)、7代藩主治郷(号不昧、30歳の頃)、藩命により宍道湖畔の意宇群(八束)布志名村に居住し、御焼物御用教方を勤め、楽山窯初代権兵衛以来、最高の格式を以って厚遇される。⦅布志名には、元禄時代(1695頃)より舩木窯の祖舩木与次兵衛村政が移り住み延享元年(1744)にその3人の子がそれぞれ窯元を形成していましたから、善四郎は藩命によりそれらの陶工に加わり、陶石・釉薬が豊富な布志名で焼物指導に当たったと推察します。1777年に4代半六が没して後、約3年間ほど楽山窯5代となっていた善四郎の跡が空席となり、不昧の計らいで、長岡住右衛門貞政が5代窯頭になったと推測します。そんな経緯もあり、2代善四郎政芳(出吾善)の次男が長岡家に入り、楽山窯6代長岡住右衛門空斎となっています。⦆
 2代善四郎政芳は天明6年藩御茶碗焼を仰せつかり、文化元年(1804)江戸詰めとなり、大崎の藩主別邸内に築窯、茶器等を製して好評を博す。その後、数回江戸に赴き、文化3年(1806)、江戸表にて扶持米・帯刀を許される。この頃、不昧公の愛護を受けて「雲善」の号と瓢箪印を拝領する。
 4代善六の時、明治維新を迎えて家禄を奉還し、従来通り明治9年まで製陶業に従事する。
同年5代傳太郎が家業を継ぎ、明治10年に同業者共同による若山陶器会社を組織して社頭に推され、博覧会等に出品して数多くの賞を受ける。
 その後、現9代幹雄氏と次代知久氏により今日に至る。民藝以前の布志名焼の黄釉の淡い釉色や伝統の縁起物“海老絵”、“大根絵”茶碗などの茶陶。また、出雲のソウルフード、ぼてぼて茶碗等が見所。また、知久氏の線刻文様の現代性、呉須釉の他にない濃淡の美しさは布志名焼の伝統に育まれた新しい作風と推察します。

 参考文献
「出雲国・布志名焼 雲善窯 土屋家沿革略記」 九世土屋善四郎編栞 平成9年1月
「布志名焼舩木窯」栞
「田部美術館 館蔵茶器名品図録」 田部美術館 編集・発行 平成元年10月


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