Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その二十八 青森県 弘前市 1992年

本州最北の民陶 — 津軽焼

 今から30年前、家内の叔父の住む青森を旅していました。叔父の車に乗り換え、弘前見物に出かけました。先ずは弘前城を訪れ、私達が子供の頃に遊園地などで見かけた菊人形展を見物しました。弘前城は全国的に知られた桜の名所ですが、城内での菊人形や品評会受賞観菊会も懐かしく、旅情を誘われました。

 お城を出ると近くの“津軽ねぷた村”でねぷたを鑑賞しました(弘前では“ねぷた”と呼び、青森、五所川原とは呼び名も囃子も異なるようです。“弘前ねぷた”は少し物悲し気な余情が特徴のようです)。

 昼食は叔父の勧めで郷土食“津軽そば”ということになりました。つなぎに大豆をすりつぶした呉汁を使い、熟成させた後に打つという一風変わったお蕎麦です。掛け蕎麦でいただきます。江戸時代、年貢で少ない米を藩に上納するため、代用食として蕎麦に栄養価の高い大豆を混ぜる習慣が生まれたとのこと。正直なところ私には美味しいとは言えないお味でした。

 昼食後、ねぷた村からほど近い小人町に津軽焼の窯元さんがあることを知り、叔父に無理をお願いして伺いました。お城近くといえども、周りは閑散とした空き地の目立つ町外れで、ようやく「津軽焼窯元錦光陶苑」さんを探し当てました。古い木造二階建ての倉庫風な建物でした。恐る恐る家人を呼び出すと、70歳前後の老人が出て来られました。話しぶりから既に廃業寸前といった様子でした。ギシギシと音を立てながら木製階段を上ると、古めかしい倉庫の木製棚に埃をかぶった在庫が並んでいました。ぐい呑みを要望すると、もう残り少ないと言いながら、どこかの棚から引き出して来て下さいました。とてもシンプルな単味の平盃でした。私には飴釉に見えたのですが、ご主人曰くリンゴの木灰を混ぜているとのことでした。岩木山の裾野一帯は津軽リンゴの一大産地、弘前の地にふさわしい素朴な焼物と思い、ご主人の勧めに従って連れ帰ることにしました。(津軽焼は、明治時代に入り鉄道が敷かれると、流入した他産地の焼物に駆逐されて大正期に一時廃絶します。今にして思えば、素朴すぎるこの民陶の運命だったのかも知れません。昭和期に入り再興されますが、錦光陶苑さんもその窯元の一つでした。江戸期に津軽焼が開窯した“弘前小人町”の地に、敢えて窯を再興された当時の心意気が偲ばれます。現在、錦光陶苑さんは既に廃業されたようです。)

 津軽の旅の終わりに立ち寄った「青森県立美術館・棟方志功展示室」は棟方が青春期を過ごした生誕の地だけあって、流石のコレクションでした。お勧めしておきます。

今回の投稿で画像をアップしましたもう一つの“津軽焼筒形ぐい呑み”は、この帰りに当地で求めたものです。津軽焼を代表する黒釉の地に海鼠釉(リンゴ灰など)が流れる凛とした釉調が、澄み切った津軽の風土と人情を物語っているように思えてきます。

【 メモ 】

(津軽焼 錦光陶苑 平盃<現在は廃窯>)
寸法(mm): 口径85x 高台径32 x 高さ42(内高台8)

(津軽焼 筒形ぐい吞み)
寸法(mm): 口径62x 高台径43 x 高さ68(内高台8)

略歴

 津軽焼は、津軽藩4代藩主津軽信政公(1656-1710)の治世、元禄4年(1691)に信政公の命により、江戸金龍山(浅草界隈、今戸焼あたり)で修行した平清水三右衛門、瀬戸助、久兵衛等によって弘前小人町に築窯され、20数年間にわたり藩の用度品を焼いたのが始まりとされる。

 文化3年(1806)、石岡林兵衛が「悪戸窯」を清水村に開き、藩の保護下で筒描きなどを施した雅趣ある陶器を焼いた。天保年間には磁器の製造にも成功した。
 悪戸焼以外にも、下川原、大沢、九十九森、久吉等に窯場が興り、染付、青瓷等の優れた焼物が造られたが、明治以降の鉄道開通により他産地の焼物が流入し、大正9年(1920)には悪戸焼を最後に津軽焼は一時廃絶した。今日、焼かれている津軽焼は昭和期に再興された窯元。ただ、下川原焼だけは伝統の可愛い土人形製作に特化して今日に続く。
 津軽焼民陶の特徴は、総じてリンゴ、ブナ、ナラ、藁、籾などの灰釉と鉄釉を調合した黒釉、リンゴ釉、白釉、灰釉が織りなす東北地方特有の清楚で素朴な釉調と形態にある。
 

参考文献
「津軽焼のしおり」 津軽焼窯元 錦光陶苑
「炎の芸術 東北の窯」 河北新報社編・発行 1984年


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