やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その七 有田 1991年
私的世界遺産 肥前磁器







1991年、九州に住むことになり、唐津の次は有田へと出かけました。
以前、東京日本橋浜町に栗田美術館東京本館があった頃(※1)、伊万里、鍋島の逸品に接し、その美に圧倒されたからでした。そのせいか有田焼(伊万里焼)には他の窯場とは異なる特別な印象を持っていました。
他の窯場は概ね生活雑器を作る民窯か、茶の湯に繋がる武家や有力町人による御庭焼か御用窯でしたが、有田は鎖国時代にあっても日本初の磁器生産地として、世界と繋がる異質性を有していました。それはスペイン、ポルトガルに代わって、当時台頭し始めたプロテスタント新興国オランダの東インド会社(VOC)介在の事実でした。中国から陶磁に関わる情報、原料、人材の入手が容易となり、染付、青磁から赤絵、柿右衛門様式、染錦、鍋島といった多種多様な磁器の大量生産が可能となりました。肥前磁器は中国内乱で景徳鎮の供給が一時停止した代替品として、中国、アジア、西洋へと大量に流通のネットワークを拡げて行きました。特に西洋磁器とその文化に与えた影響は絶大であったと思います。
旅の始めは、車で佐賀県立九州陶磁文化館を訪れ九州諸窯を概観の後、泉山磁石場を見学、上有田駅付近から有田駅まで、磁器街道を散策と決め込みました。途中、街道沿いの高台に鎮座する陶山神社(すえやまじんじゃ)に参拝。万治元年(1658)創建で、境内には祭神李参平命が祀られ、陶祖李参平の碑が建立されています(※2)。境内の鳥居、灯籠、狛犬、社殿の欄干など随所に使われた有田磁器に包まれながら、磁器街道を眼下に見渡す気分は格別のものでした。各地の栄えた窯業地には関係者に守られてきた陶祖神社が在り、それぞれの歴史を偲び、特色を識るには是非訪れたい場所の一つです。
帰りに源右衛門の「古伊万里風楼閣桜図ぐい呑み」を買い求めました。ろくろ師、下絵師、本焼師、上絵付師各人の練達の陶技によって生まれる、手間隙掛かった伝統の品です。
メモ
(※1)現在は足利本館のみ。〒329-4217 栃木県足利市駒場町1542
(※2)近年の研究成果では、李参平が有田泉山に陶石場を発見して磁器を焼成したが、創始したかは確定出来ない様です。日本での磁器生産の時代的要請に応えた先達の一人であったかもしれません。李氏は朝鮮より鍋島軍に連れ帰られた帰化陶工であり、もし陶祖であるならば李朝陶磁技法と明朝陶磁制作の合体は誠に興味深い話です。
購入価格:15000〜20000円位 (27500円税込2021年現在)
寸法(mm): 長径65 x 畳付き径28 x 高さ45 (内高台4 )
箱.箱書き;有
李参平; 大橋1993(a)によれば,1610年代になって,有田で磁器の生産が開始された.鍋島軍によって連れ帰られ,重臣多久家に預けられた李参平(初代金ケ江三兵衛)が,1616年に有田に移住して,泉山の陶石場を発見し,磁器を焼成したことは,1653年(推定)の金ケ江三兵衛文書と1807年の「金ケ江家文書」によって確実であるが,彼が肥前磁器を創始したかどうかは,確定できない。
1581年オランダがイスパニアから独立
1600 オランダ商船リーフデ号が九州豊後国(大分)に漂着。
1601 乗組員ウイリアム・アダムス(三浦按針)等が徳川家康に謁見
1602 オランダ東インド会社(VOC)設立。カトリックのスペイン、ポルトガルがプロテスタントの
新興国オランダに世界の覇権を奪われてゆく発端となる
1603 徳川家康が江戸幕府を開府
1604 内外貿易船に通商を許可する朱印状を発布
1605 オランダ東インド会社の記録では日本の磁器生産は慶長10年頃と記載
1609 徳川幕府は東インド会社に通商許可を与え、平戸にオランダ商館を開設
1616 徳川家康逝去
元和2年1616年、李参平が有田泉山に陶石場を発見し、磁器を焼成した。
1635 日本人の海外渡航禁止
初代藩主鍋島勝茂の長子忠直死去(23歳)に伴い、忠直に仕えた初代柿右衛門
(酒井田喜惣右衛門)は士分より窯焼に転向
1637 島原の乱勃発
1639 ポルトガルとの通商禁止、国外追放
1641 オランダ商館を平戸から長崎出島に移す
1650 VOCは中国から呉須を日本に輸入の記録(出島商館長ワグナー日記)
1653 VOCは日本製磁器を初めてインドネシアのバタビヤ薬局(現ジャカルタ)向けに
薬瓶2200個輸出(同上)
1659 万治2年、日本製赤絵磁器を初めてアラビアのモカに輸出の記録(同上)
