やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その九 小石原・ 東山 1991 年頃
高取焼
小鹿田からの帰り道、小石原を訪れました。福岡県道211号線(※1)沿いの緩やかな丘陵に点々と窯元が現れます。何軒かに立ち寄りました。小鹿田焼の源流ですから刷毛目、飛鉋、櫛描き、指描き、流し掛け等、基本的に兄弟のようなやきものです。総じて小鹿田焼の“おおらかさ“、“ゆるさ“に対して、造りが“かっちりとして“、“堅牢な“印象を受けました。釉調は小鹿田の透明感や明るさよりやや沈んだ感じです。一軒の窯元さんに「薪窯ですか」と尋ねると、「ここいらはほとんど重油窯だ」との事。窯場の規模、立地条件、土質、歴史的背景などによるものと思われます。
その中に一軒、茅葺の各式ある古民家と「高取焼宗家」の看板が目に留まりました。恐る恐る中に入ると、思いの外敷地は広く、邸内には登り窯や唐臼小屋、お社まで点在しているではありませんか。後に知ることになる「遠州公ゆかりの七窯」の一つ高取焼宗家のお宅だったのです。母屋に入ると土間の展示室に作品が並んでおり、日没前の薄灯の中に浮かび上がる飴釉と一筋流れる灰釉の美しさにうっとりとしていました。今にして思えば、正に“綺麗さび“の真髄を見ていたように思います。突然長靴姿で髭面の精悍な男性が入って来られました。先代十二代高取八山氏でした。飾らない豪放磊落な様子で「今は窯開き前で作品が少ない時期だが、見て行きなさい」と声をかけられ恐縮したものです。残念ながら若輩者には手の届かないもので、悔しく手ぶらでその場を去りました。「後悔先に立たず」、今だに悔しい思い出です。
後日、高取焼に興味を持った私は福岡市北西部、早良区に高取焼窯元の存在を知って早速出かけました。こちらは「小石原高取」に対して、「東山高取」(※2)と呼ばれています。地下鉄空港線藤崎駅から徒歩数分、小高い丘の住宅街を登って行くと瀟洒な「高取焼味楽窯」を見つけました。広い敷地内には現代的な2階建ての「味楽窯美術館」と和風建築が配され、先づは美術館を訪れました。立派な展示室には先代十四代亀井味楽作の遠州高取の茶陶が並び、綺麗さびの名品を堪能。1階のギャラリーショップで亀井正久氏(現十五代亀井味楽氏)のぐい呑みを購入して家路につきました。ぐい呑みは30年前ですから正久氏30代初めの作です。古高取に挑戦され、十五代を襲名されるなど、今も新たな領域に挑戦し続けておられるとの事、
30年ワン・ジェネレイションの重みを感じる今日この頃です。
メモ
※1.黒田長政に朝鮮より帰従し、士分となった陶工初代ハ山(日本名;高取八蔵重貞)は、藩主の命により、1600年鷹取山麓の永満寺宅間に窯を築きました。その後、内ヶ磯窯。望郷の念の行いから藩主の怒りをかって山流しとなった山田の陶人谷窯(以上、古高取)。許され藩主命により京都伏見に旅し、小堀遠州公に教えを乞うて飯塚の白旗山窯を築窯(遠州高取)。そして、二代八蔵貞明の時、小石原に移り鼓窯時代へ。その後、幾多の変遷を経て今に至る。望郷の念を胸に作陶精進した八山苦難の窯跡群は小石原より北上した直方、飯塚の県道211号沿いに点在しています。
※2.1700年代に入り、四代藩主綱政公の命により、高取源兵衛勝利によって現福岡西新に茶陶を専門とする東皿山窯(東山)が開かれます。次いで藩は庶民の日用雑器生産のために西皿山窯を築かせ、高取焼は東西二つの皿山で運用されて行きます。明治4年廃藩置県によって御用窯高取焼は一時期廃窯となるまで、歴代当主が小石原と東山を半年交代で掛け持つ“掛勤“が行われていたようです。このため一時期廃窯後、ゆかりの両地域に縁ある窯元が再興され、今に続いています。
寸法(mm): 長径60 x 畳付き径30 x 高さ52 (内高台5 )
箱.箱書き:有






来歴
●(高取焼)
黒田長政が朝鮮陶工八山(日本名 高取八蔵重貞)に命じて鷹取山麓の永満寺宅間(直方市)に慶長5年1600年、御用窯として築窯させたのが始まりとされている。その後、窯場を変え(古高取)永満寺宅間窯―内ケ磯窯(1614〜24直方)―山田陶人谷窯(1624〜30 山田市)―小堀遠州指導期(1579〜1647)、2代藩主黒田忠幸と交流を深める(遠州高取)白旗山窯(1630〜65 飯塚市)―(2代八蔵貞明期)小石原鼓窯(1665〜1688頃 朝倉郡小石原)―小石原中野窯(1682頃〜18世紀中頃 小石原)―(御庭高取)大鋸谷窯(おおがたに;1688頃〜1704 福岡市中央区)―(御庭高取分割、掛勤期)4代高取源兵衛勝利が東皿山を開き、一年の内半年は鼓窯に滞在して双方で制作を行う「掛勤」を行い始め、明治4年(1870)廃藩置県まで掛勤が続く(東皿山窯(1716〜1871 福岡市早良区)―西皿山窯(1741〜1871 福岡市早良区)―明治維新後、廃藩置県により一時廃絶―(宗家再興)(1907 明治40年〜1983)、小石原高取焼宗家高取静、父10代富基と共に昭和13年再興するが、再興個展会期中に富基急逝により、一時休窯。昭和32年再び窯を開き、翌年遠州流宗家12代小堀宗慶に師事し、11代高取静山を襲名する。12代八山、13代現八山、子息春慶と続く(令和3年時点)。
高取焼略年譜
| 西 暦 | 和 暦 | 高 取 焼 関 係 事 項 | 一 般 事 項 |
| 1592 | 文縁元 | 八山、黒田長政に拝謁す。長政の命により後藤又兵家人桐山常右衛門が八山夫婦および一子を連れて渡海し来る。 | 文禄の役。秀吉、朝鮮に出兵。千利休没。 |
| 1598 | 慶長 3 | 秀吉没。朝鮮出兵中の将兵、帰陣。 | |
| 1600 | 慶長 5 | 黒田長政、豊前中津から筑前博多に移封となる(12月)。 | 関ヶ原の戦い(9月)。 |
| 1606 | 慶長11 | 鷹取城主に手塚氷雪任命。この頃、永満寺宅間窯開窯さる。八山、八蔵の名を賜る。 | |
| 1608 | 慶長13 | 小堀正一、駿府城作事奉行に命ぜられ、その功により遠江守に叙せられ以後遠州と呼ぱれる。遠州30才。 | |
| 1614 | 慶長19 | 内ヶ磯窯開窯。 | 大坂冬の陣。 |
| 1615 | 元和元 | 幕府の一国一城令により鷹取城廃城。 | 古田繊部重然自刃(79才)。 |
| 1623 | 元和 9 | 長政没(8月)。嫡子忠之が相続。遠州、伏見奉行となり、生涯この職を勤める。 | |
| 1624 | 寛永元 | 八蔵父子、忠之の勘気にふれ山田村に邊居.山田窯開窯。 | 神屋宗湛、博多文琳を忠之に献ず。 |
| 1628 | 寛永 5 | 高取焼、「遠州茶会記」に初めて見ゆ(茶入、水指)。 | |
| 1630 | 寛永 7 | 自旗山開窯。八蔵と長男八郎右衛門は伏見の小堀遠州のもとへ指導を受けに行く。 | |
| 1635 | 寛永12 | 神屋宗湛没(85才)。 | |
| 1647 | 正保 4 | 小堀遠州没(69才)。 | |
| 1654 | 承応 3 | 八蔵(八山)白旗山にて没(8月)。嫡子八郎右衛門多病のため二男新九郎、二代となり八蔵貞明と名のる。黒田忠之汲(2月)。 | 黒田光之、三代藩主となる(4月)。 |
| 1665 | 寛文 5 | 自旗山窯から小石原鼓に窯を移す。 | |
| 1682 | 天和 2 | 小石原中野にて、光之、肥前伊万里より陶工を将来し陶器を作らしむ。 | |
| 1684 | 貞享元 | この頃、八之丞小石原中野に移る。 | |
| 1685 | 貞享 2 | 八郎重房、八郎右衛門の跡式を継ぎ、六人扶持で御用陶工となる。 | |
| 1688 | 元禄元 | この前後に、福岡城の南、大鋸谷に窯を開く。四代綱政襲封。 | |
| 1690 | 元禄 3 | 絵師の狩野昌運、黒田藩の御用絵師となり、御用陶器に絵付を行う。 | |
| 1691 | 元禄 4 | 二代八蔵貞明、福岡の役宅にて没(4月)。実子八九郎、家督を継ぎ、三代八蔵となる。 | |
| 1704 | 元禄17 | 2月、八蔵は鼓村より博多奥乃堂へ引越す。夫鋸谷窯不意に取崩となる。 | |
| 1707 | 宝永 4 | 三代光之没(5月)。 | |
| 1708 | 宝永 5 | 荒戸新町に窯を開く。 | |
| 1711 | 正徳元 | 四代綱政没(6月)。五代宣政襲封(8月)。 | |
| 1716 | 享保元 | 東皿山開窯。 | |
| 1724 | 享保 9 | 八郎重房没(4月)。 | |
| 1741 | 寛保元 | 西皿山開窯。 | |
| 1744 | 延享元 | 五代宣政没(8月)。 | |
| 1771 | 明和 8 | 黒田治之、西皿山見学(3月)。 | |
| 1820 | 文政 3 | 「高取歴代記録」なる。 | |
| 1871 | 明治 4 | 廃藩置県により廃窯。 |
※ 九州歴史資料館研究論集31 「筑前国焼高取焼の様式変化について」より抜粋させていただいております。
●髙取焼直系窯変遷図・系図 黒田藩御用窯

●高取焼400年祭の由来( 古高取を伝える会HPより)
筑前藩窯高取焼が開窯されて400年ということについての根拠は以下の通りである。
筑前福岡着の御用学者貝原益軒が、宝永六年(1709)に編纂した『筑前国続風土記』の巻之29土産考上・器用類の中にある「鷹取瓷器(やきもの)」である。
この文書を引用してみると、次のようになる。
鷹取瓷器、鷹取焼は朝鮮軍の時、長政公の手にも、朝鮮人あまたとらわれ来りし中に、瓷器を製する上手あり。名を改て八蔵と云。又加藤清正の手にも、一人上手あり。新九郎と云。二人ともに、高麗にて井土と云邑の者にて、八蔵は新九郎が聟可。八蔵か妻も同しく日本に来る。長政公其良工なる事を聞玉ひて、手塚水雪に命し、水雪か居城鞍手郡鷹取にて八蔵に瓷器を製せしむ。其後新九郎をも、鷹取に招き居らしめて、新九郎、八蔵相ともに製す。世に称する鷹取焼是也。
新九郎は程なく死す。忠之公の時に至り、小堀遠江守正一黠茶の宗匠たり。伏見に居住せらる。かの八蔵并其子八郎右衛門を相添て、伏見につかはし正一のこのみを受て、茶入茶碗水指等を製す。八郎右衛門は朝鮮の産也。其以下女子并末子の新九郎等は、鷹取にて生る。其後八郎右衛門は病気にして、末子新九郎家を嗣ぎて八蔵と號す。
又五十嵐次左衛門と云者あり。肥前唐津寺沢家に仕へ、彼家を浪人して、筑前に来る。此者迫戸瓷器の法を習ひ、其外種々の製を鍛錬せり。忠之公被召出、八蔵と同じく鷹取において、瓷器を作る。共に良工也。
鷹取焼茶入正一名を称せらるるもの、染川横岳秋の夜等也。横岳は酒井讃岐守忠勝へ、秋の夜は小笠原山城守長頼へ、忠之公より送らる。
染川は、国君にあり。同し時の製耳付の茶入も、名はなしといへとも、横岳によく似て、相をとらぬよし、正一甚賞せらる。染川と同しく、国君にあり。今の八蔵は朝鮮より来し八蔵が孫也。今の八郎は八郎右衛門が子なり。今の次兵衛は次右衛門か孫也。
慶長一九年の此より、鞍手郡内磯と云う所にて製し、寛永七年の比、穂波郡合屋の中村の白旗山の北の麓に移りて製し、寛文七年より上座郡鼓村にて製す。頃年福岡城の南田嶋村の東の松山に製す。
この記事の内容は六つに要約される。
- 鷹取焼の由来は、「朝鮮軍」(文禄慶長の役)の時、黒田長政の手に捕らわれた人たちのなかに、焼き物の陶工で巧みなものがいたので、名を八蔵に改めさせた。
加藤清正の手にも新九郎という陶工もいた。両人とも高麗に井土という村の出身者で、八蔵は新九郎の聟で、八蔵の妻も日本にやってきた。 - 長政は家臣の手塚水雪に命じて、水雪の居城鞍手郡鷹取で八蔵に焼物を焼かせた。
その後、新九郎も招き入れて共同で焼いた。程なく新九郎は死去したが、これが鷹取焼であるという。 - 二代藩主忠之の時、伏見奉行の小堀遠州のもとに八蔵とその子八郎右衛門を派遣し、教えを請う。その後遠州好みを制作する。八郎右衛門病気にて死す。
末子新九郎が家をとり、八蔵(二代)を継ぐ。 - 五十嵐次左衛門については、唐津寺沢家に仕え、その後浪人して筑前に来る。
忠之が召し出して、八蔵と同じ鷹取において焼物をつくらせる。 - 遠州が名付けた茶入れは染川・横岳・秋の夜で、横岳は酒井讃岐守忠勝へ、秋の夜は小笠原山城守長頼にそれぞれ忠之が贈った。染川と同じ時製した耳付きの茶入は名はないが、横岳と似ているのもので、黒田家の手元にある。
- 高取焼の変遷については、次のように記述されている。
慶長一九年(1614)に内ヶ磯、寛永七年(1630)に白旗山、寛文七年(1667)鼓村で、元禄一七年(1704)南田島村松山(早良郡田島)の内で焼く。
高取焼の発祥の窯の年代は、ここでは文書の中でとらえることができる。
すなわち、手塚水雪が高取焼の創業に関与していることからである。
内ヶ磯窯跡
直方市教育委員会「古高取 内ヶ磯窯跡」より

黒田長政が筑前入国した時期から宅間窯を築窯した時期との間に五年前後の年月があるが、この時期に窯の立地条件のよい所を探求した後に、鷹取山の麓に開窯した。
そしてこの手塚水雪がこの筑前六端城のひつである鷹取城を守るようになるのは、嘉麻郡益富城主の後藤又兵衛が出奔し、鷹取城を守っていた母里太兵衛が大隈城に入り、その後釜として慶長一一年(1606)に手塚水雪が入城したためである。
これが高取焼の誕生年と考えられる。手塚水雪が鷹取城主となった時をもって、高取焼発祥の根拠としたい。これが開窯400年祭の基点である。
なお、詳細には直方市教育委員会が一九八三年に刊行した報告書『古高取永満寺宅間窯跡』を参照されたい。
●福岡県の陶器。(鶴田純久の章「高取焼」)
文禄・慶長の役(1592-8)後わが国に伝わった朝鮮系陶窯の一つで、創窯以来数回も窯場を移転させたが、終始福岡藩主黒田家の藩窯として、また遠州好み七窯の一つとして有名であります。
年序に従ってその沿革を概説すれば、(一)古高取慶長の役の時黒田長政に従帰した朝鮮毒登の陶工に八山という者かおり、1600年(慶長五)12月黒田氏が豊前中津から筑前福岡に転封した時、八山は命によって鷹取山の麓の永満寺宅間(直方市)に陶窯を創設しました。
これが高取焼の始まりであります。
1614年(慶長一九)同地内ヶ磯に窯を移し、八山の姻戚で当時加藤清正によって従帰し肥後国(熊本県)小代焼にいた犀登新九郎を招いて、八山と共に製陶させました。
その製は主として茶器で、質は堅硬で、茶褐色釉を施し、その上にまだらに黒色釉を掛けています。
また唐物と同様に左糸切で、総じて朝鮮のものに劣らず後世古高取として珍重されました。
のち八山は高取八蔵という姓名と七十大扶持を得てすこぶる厚遇されましたが、かえって世評に甘え不遜の行為があったために、藩主忠之の怒りにふれ食禄を没収されました。
その後八蔵とその子八郎右衛門は一時嘉麻郡山田(山田市)の唐大谷に窯を起こした。
遠州高取1630年(寛永七)に至って八蔵父子は再び招じ返され、改めて穂波郡合屋の内中村白旗山(飯塚市中)の北麓に窯を築き、また命によって山城国伏見(京都市伏見区)に至り小堀遠州から茶器の指導を受けた。
遠州好み七窯の名はここに発するものであります。
ちょうど当時唐津城主寺沢氏の浪大五十嵐次右衛門が筑前に来ており、非常に瀬戸の陶法をよくしたので藩主はこれを聘し、八蔵と共に製陶に従事させました。
これより製作は進歩し、かの中興名物茶入に選ばれた高取大海・同耳付・同腰蓑・松風・手枕・横雲・秋の夜・染川などの精作を出すに至りました。
遠州高取の特徴を挙げれば、陶質緻密で、釉は白色または浅碧あるいは暗灰色を帯び、時に青黒のものがあるようで、いずれも滋潤の肌を現わし、また時として窯変して釉相が金色を呈するものもあります。
また古製には下釉がなかったが、五十嵐の瀬戸風を加えてから初めて下釉が加わりました。
遠州高取の多くは寛永(1624-44)から正保(1830-44)末年までの作のようであります。
(三)小石原高取1667年(寛文七、一説に1665年)藩主光之の時、窯を上座郡小石原鼓ヶ滝の下流鼓村(朝倉郡小石原村鼓)に築きました。
これを小石原高取といいます。
(四)東山高取四代藩主綱政の1708年(宝永五)2月に、八蔵の子孫を早良郡島原村上の山(福岡市西新町)に招いて製陶させました。
これを東山あるいは東皿山と呼んで明治維新に至るまで連綿と継業し、藩は特に皿山奉行を置いて直接監督に当たりました。
東山はこのようにまったくの藩業であったので、その製品も初めは抹茶碗・茶入・置物などの種類に限定し、焼成もまた年一回に限ってもっぱら精作を出すことに努め、主として幕府および諸侯への贈答用に当てた。
享保(1716-36)頃より香炉・水指・茶碗・香合など品種を増し、また文久年間(1861-4)には東山役所を置いました。
しかし明治維新に当たって藩の保護は止み、この伝統ある高取焼もたちまち衰退に傾いました。
1889年(明治二二)4月森長三郎という者がこれを慨嘆し、室見川畔藤崎(福岡市藤崎)に窯を再興し、七代高取英一もまた1899年(同三二)に窯を今川橋畔に築いました。
現在福岡に亀井味楽、小石原に高取静山がいます。
以上は高取焼正系の略述でありますが、なおほかに五代藩主宣政の時、精品専門の東山に対しもっぱら日用品を焼くために東山から西数百メ一トルの所に西皿山を起こしました。
これが現在の西新町窯であります。
また寛永年間(1624-44)に小石原の陶工が福岡城町田島村東松原(福岡市田島)に来て開窯した(これを田島高取、一名有泉亭御庭焼といいます。
が、土質が調和せず焼切れが多かったのでしぱらくして廃止し、さらに1716年(享保元)に西皿山に移転したという説もあります。
また福岡市雷山および同市能古においても高取焼の窯があったと伝えています。
(『陶器考付録』『本朝陶器放証』『観古図説』『工芸志料』『大日本窯業協会雑誌』八三『大正名器鑑』『茶わん』五〇・五三・五四・五五)※にししんまちがま
●「福岡市の文化財:高取焼窯元」より
文禄、慶長の役(1592年~98年)は別名「やきもの戦争」とも呼ばれているように、日本の陶磁器に多大の影響を及ぼしている。それは日本軍が帰国の折に様々な文物を持ち帰り、専門職集団を強制移住させたが、その中に「やきもの」や「陶工」の比重が圧倒的であったことに因んでいる。高取焼も文禄、慶長の役後に開窯された焼物の一つである。
黒田長政は文禄・慶長の両役に参加したが帰国の折に朝鮮人陶工「八山」を連れてきた。
来日直後のことは不明であるが、慶長5年(1600)黒田長政が筑前に転封されたことに伴い、豊前から筑前に移ったものと思われる。
最初の窯場は直方市の郊外鷹取山麓にある永満寺宅間に開かれた。この地に因んで焼物の名称も「高取焼」と命名された。
慶長19年(1614)には鷹取山の北斜面、内ヶ磯に移動している。ここでは焚口1室、焼成室14室の連房の巨大な登窯を築き、永満寺時代よりも大規模でしかも高火度の作品が焼成できるようになっていた。
元和9年(1623)長政が没すと、八山父子は祖国朝鮮へ帰国を願い出たが許されず、禄は取り上げられ、嘉摩郡上山田村に蟄居を命じられた。これが山田窯である。
寛永7年(1630)八山父子は許され、穂波郡白旗山麓に開窯した。『高取歴代記録』によると茶人小堀遠州の指導をうけ、七色の釉薬を特色とするいわゆる「綺麗さび」を基とした茶陶を展開し、数々の名品を残している。この時代を遠州高取と呼んでいる。
この後も寛文5年(1665)には上座郡鼓村で小石原鼓窯を、次いで貞享年中(1684~87)には早良郡田嶋の大鋸谷窯へと移り、享保元年(1716)に早良郡祖原に東皿山窯を開いた。
東皿山窯は、明治4年(1871)廃藩置県に至るまで最も永く営まれた。この窯は茶陶を専門としたため、庶民の日用品生産のため西皿山窯が築かれ、東西二つの皿山が運営されていたのである。
廃藩以降は藩の庇護がなくなり、自立自営を余儀なくされたため一時衰微したが、現在は再興され、亀井味楽氏が東皿山窯系の茶陶の技法を、原豊氏が西皿山窯系の日用雑器の技法を伝えている。
亀井味楽氏の工房のある敷地内には味楽窯美術館が付設され、一般に公開されている。
●西新校区自治会編 西新風土記Vol.7「西新町の窯業と養蚕業と炭鉱」より(2020年4月14日)
高取焼
江戸期における陶器は幕府及び各藩の統制品であり、その製法等は門外不出でした。高取焼は秀吉の朝鮮出兵時に黒田如水・長政により連れて来られた八山(高取八蔵 後に士分(70人扶持)を与えられた)が小石原に窯を開きました。二代藩主忠之公の時、八蔵親子は近江茶人小堀遠州の下で茶器を学び、唐津の浪人五十嵐次右衛門(瀬戸の陶法)ともに転々(製法を秘匿または製陶しているのを隠すため)としては窯を開き、宝永5年(1708年)四代藩主綱政公の時に早良郡麁原村の上ノ山に窯を開いて、茶器等を製作した。土は下田(祖原15-7)から採土(後下田池となる)しました。
焼き物の製造は、藩庁の経営(東山御焼物所)であり、献上品として東山高取と称し藩主の贈答用に使われた。しかし、正徳5年(1715年)西新町瓶焼六郎次家より出火し町屋数件と藩士宅合わせ十数件焼失しました。このため、西皿山で生活用品とともに一時期御用製品が作られるようになりました。
上記電柱の紹介文(西新5丁目にあった東皿山焼の紹介)に明治維新まで「東皿山焼き窯」があったようになって いますが、寛保元年(1741年)東山窯が大破し、西皿山に新大窯が造られ、 延享2年(1745年)に東山では御用製品の製作の内「造形・成形・釉薬作 業」、西皿山で「焼きの工程」(西皿山焼)が行われました。「高取歴代記 録」(藤本氏 調べ)(また、ここでは江戸後期には石炭が掘られている)
西皿山での焼き物は、五代藩主宣政公の時、享保元年(1716年)小石原から柳瀬三衛門を窯方頭取に早川・中川(後亀井)の2陶工をもって西皿山(現高取1丁目)に、民用のすり鉢等の窯を開きました。が、奉行の統制下にありました。

「藩から陶器を営むところにお金を貸して、出来た器を納めさせてる、奉行をおいてその事業を統制しているが、庶民のなかには安く売っている。その利益は僅かであるので、やめたいと言っているが、日用品として欠くことができない器であるがゆえに我が国で造らなければ、よその国のものを高く求めなければならない。よって人々の憂いとなってはいるが、それは聞き入れられない。」となっています。



この西皿山の焼き物は、奉行の統制下にあったとはいえ質のいい陶器が生産され、筑前の名物なりました。焼き物は大西の浜(百道浜)から船で積み出していました。しかし、明治以来高取焼は変転浮沈を繰り返します。日用雑器、茶器、置物、産業、建設用と幅広い製品を作り出しその時々の需要に応じていました。
井戸は、当初はつるべ井戸でしたが、木製ポンプに代わり、次いで陶器ポンプにかわりました。狂いがなく値段の安い陶器ポンプは、九州一円から上方まで進出しました。しかし水道が普及しポンプの時代はおわりました。



| 下の写真は「耐酸陶器」です。窯元樺島家ではこの「耐酸陶器」を、薬品を貯蔵しておく容器として開発しました。戦争中、化学工場にはなくてはならないものでしたが、プラスチック、ステンレス等が登場し、時代の終わりを告げた。現在、高取での窯元は、茶陶等に専念する亀井家だけになっています。 |

| 登り窯の跡地にはキルン(英語で窯)という名のマンションが数棟建っています。 |
福岡煉瓦会社


明治20年(1887年)福岡煉瓦会社が創設され、レンガ・土管を製造した。以前、レンガは京阪より取り寄せていました。この工場で製造されたレンガ・土管は、博多・福岡の建物の建造、軍港、鉄道の敷設工事に使われ、台湾にまで出荷されていました。土は下田(現祖原15-7)から採土しました。跡地は後に下田池になりました。
以上
