Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


Blogs


やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その十 上野(あがの)        2007〜8 年頃

帰化陶工の足跡をたどって

九州を去って15年近く、行き残した心残りの窯業地が幾つかありました。薩摩(苗代川、龍門司等)、長崎(波佐見、三川内等)、そして福岡上野(あがの)でした。前回投稿の高取焼とは縁深く、肥前熊本の高田焼、小代焼の源流であり、高取同様遠州七窯の地です。思い切って出かけました。

鹿児島本線折尾駅から筑豊本線に入り、直方から平成筑豊鉄道伊田線に乗り換え赤池を目指します。炭鉱の筑豊を行く心持ちが旅情を誘います。かつてのボタ山も今は草木に覆われ、穏やかな田園風景を単線電車がのどかに走って行きます。

ようやく辿り着いた赤池は田園の真只中、眼前に連なるなだらかな稜線の一角が鷹取山と思われます。地図を頼りに彦山川を渡り、目指す上野焼宗家熊谷本窯を探して歩き出しました。緩やかな勾配の道を行けども行けどもそれらしき光景に行き当たりません。ようやく30分ほど歩いた辺りから煉瓦造りの高い煙突や窯元の看板が現れ始めました。何軒かを覗いている内に、看板に高鶴(こうづる)の名が。古高取の研究から始まり、ハーバード大学の陶芸指導で80年に渡米。その後、ポップな現代陶に進まれ、ボストン郊外で作陶されておられる巨匠高鶴元氏のご生家でした。小一時間して、ようやく道沿いに山間の趣が見え始めた頃、熊谷本窯に辿り着きました。

豪壮な古民家群からなり、中に入ると初老の男性(上野焼第十六代 熊谷保興氏)が知人とお話し中でした。お客が帰られるのを待って、やきもの旅をして来た旨を伝えると「ついて来なさい」と別棟の上野陶芸館に案内されました。そこで古上野から氏の作品まで様々な上野焼を拝見する機会を得ました。母屋に戻ってぐい呑みを求めましたが、茶陶主体で数少なく、白釉に梅があしらわれた作を出されましたが、そばに陳列されていた赤みを帯びた作に目が留まりました。上野焼の土灰、藁灰、鉄釉、白釉、銅緑釉と多彩な釉の中でも、陶土由来か赤みがかった釉調は上野焼特有と感じました。九州男子らしく「息子のじゃ」と一言。子息知興氏が武蔵野美術大学院を卒業後、戻られた直後の作と思われます。この体験にすっかり気を良くした私は上野峡を観ることもなく、夕景の筑豊を後にしました。

メモ
寸法(mm): 長径48 x 畳付き径25  x 高さ65 
箱.箱書き;無 

来歴 関ヶ原合戦の論功により豊前一国を与えられた利休七哲のひとり細川忠興(三斎;ガラシャの夫君)は、李朝陶工“尊楷“(上野喜蔵高国)を招聘して、1602年(慶長7年)に“上野(あがの)“の地に“釜の口窯“を築窯します。これが上野焼の始まりとなります。同じ年、鷹取山系を挟んで西側の筑前国では黒田長政が同じく朝鮮陶工高取八山に永満寺宅間窯を築窯させていました。1624年(寛永元年)高取焼内ケ磯窯が八山親子蟄居閉窯のため、陶工の一部が釜の口に移り合流します。一方、肥後では加藤清正の子忠広の時、国を改易され、代わって1632年(寛永9年)細川家は肥後国(熊本)に移封となります。この時、尊楷は藩主忠利に従い、妻と三男十時孫左衛門を上野に残し、長男忠兵衛と次男徳兵衛を従えて肥前八代に移り住みます。上野焼は新たな藩主小笠原家の御用窯として、十時、渡、吉田の三家共同窯として明治まで続いて行きます。片や肥後では、尊楷親子によって“八代焼(高田焼;こうだやき)“が興ります。また、窯の口や岩谷窯以来、尊楷に従って来た牝小路(ひんのこうじ)、葛城の両家によって、小代山北麓に藩窯小代焼が築かれて行きます。


PAGE TOP