やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その十一 熊本八代 日奈久 1991年頃
湯の町とやきもの/高田焼(こうだやき)




湯の町と焼き物は何故か相性が良いようです。今ざっと思い浮かべても、八代日奈久温泉と高田焼、佐賀嬉野温泉と吉田焼、島根温泉津温泉と岩見焼、松江玉造温泉と布志名焼、松山道後温泉と砥部焼、加賀温泉郷と九谷焼、会津東山温泉と会津本郷焼、岩手花巻温泉と台焼などなど。やきもの旅の疲れを温泉で癒し、地の山海の幸を地酒でいただく、もちろん探し当てたぐい呑みで。やきもの旅の醍醐味です。
1991年、博多から車で約2時間、熊本から更に八代(やっちろ)を過ぎ、思わず通り過ぎてしまいそうな“日奈久温泉”入り口に漸く到着。狭い脇道を入って行くと、旧街道の宿場らしき佇まいに吸い込まれてゆきます。人影少なく、タイムスリップしたかのようなこの道筋がかつての薩摩街道とのこと。ここに上野焼の流れをくむ尊楷直系の窯元があるとは・・・(*1)。思わぬ展開に戸惑いながらも歩いて行くと「高田焼上野窯」の看板が。陶房兼お店といった瀟洒な町屋で、そろりと中へ。展示スペースの奥が陶房で、丁度年配の男性が轆轤に向かわれている最中でした。十一代上野才助氏でした。十二代浩之氏が対応して下さいました。(現在は十三代浩平氏と三代で作陶されておられます。)
その作は(*2)、上野焼からは想像しがたい青磁象嵌でした。正確には鉄分を含む青磁釉を掛けるのではなく、日奈久の土に含まれる鉄分で発色させる青磁です。半乾きの素地に竹べら、または印花(押印)による凹部に白泥を埋め込む白土象嵌という朝鮮由来の技法です。雲鶴手、三島手、暦手など古典的な作にまじって、動植物などの現代的な文様にも取り組んでおられました。古典か、現在形か、悩みましたが、今尚、温故知新の高田焼に敬意を表して、現在形うさぎ文を選びました。どっしりとした手取り、透明感ある淡青色に洒脱な白うさぎ一羽、きめ細やかな貫入、歳を重ねるにつれ解かる端正な格調を持ったぐい呑みです。
メモ
寸法(mm): 長径64 x 畳付き径34 x 高さ47 (内高台8)
来歴
(*1)「高田焼上野窯」栞の由来書きによると「文禄の役の際、加藤清正公を慕って、尊楷が来日(1592年)。当時の釜山海の城主尊益の一子で、しばらく唐津に住したが、陶芸に秀でていることを知った細川三斎公に作品を上覧したところ、公は大変気に入り、召し抱えられた。」由。他の上野焼関連の由来からも、尊楷が日朝を往来し得る立場にあったと推察されます。1632年(寛永九年)細川家が加藤家改易に伴い、肥後に移封されると、尊楷(上野喜蔵高国)は上野釜の口窯に妻と次男を残し、長男忠兵衛、三男徳兵衛を従えて、現在の熊本県八代市奈良木に窯を開きます。尊楷は1654年(承応三年)この地に没し、4年後の元治元年に忠兵衛、徳兵衛兄弟によって、奈良木の南に隣接する平山に窯を移します。その後、徳兵衛の三男太郎助が奥上野を立て、忠兵衛の木戸上野本家、徳兵衛の中上野と三家が代々藩の焼物師として高田焼を守り継がれてゆきます。江戸中期1778年(安永七年)には徳兵衛のひ孫上野丹次により「松尾焼」が築かれ、すべて献上品や藩主、御殿の什器として使われました。明治25年に陶土の産地日奈久に窯が移されて以降、本家忠兵衛の家系のみが今日に至っています。奈良木窯跡は残っていませんが、平山窯は県指定史跡として保存され、尊楷もここに眠っています。 (*2)象嵌手法が高田焼の特徴となったのは江戸中期頃で、それ以前は古上野、古高取、小代焼に通底する素朴ながら力強い作風、釉調が主体だったようです。古上野の中には斑唐津と見まがう作品も見られ、李朝陶器、唐津焼、上野焼、高田焼、小代焼へと繋がる九州諸窯に残した尊楷の功績が偲ばれます。
