やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その十四 沖縄 那覇 2004年
“やちむん”の街 壺屋








1996年、車で神奈川県の磯子プリンスホテル辺りを走っていました。“全国焼物展開催”の昇り旗が目に留まり、ホテル会場に吸い込まれて行きました。大広間には全国各地から集まった焼物商が並び、沖縄訛りの若い男性に声を掛けられました。民芸館に陳列された古美術品を眼にした経験はありましたが、本場の様々な生活雑器を目の当たりにするのは初めてでした。
男性はとても人懐っこく明るい口調で“やちむん(焼物)”について熱心に語ってくれました。
とりわけ色彩鮮やかで上品な絵皿が目に留まり尋ねると「それ小橋川太郎さんの赤絵(*1)、ジョーヤチ(*2)です」と返ってきました。作家をまるで近所の顔馴染みといった話しぶりに何故か温かい心地になるのでした。この催事が終わると次は車で東北を巡り、車中泊で沖縄に戻るのは1ヶ月先とのこと。古よりこのような陶器商が行脚して、やきものを広めていったのでしょう。
別れ際に、沖縄に来たら是非寄って下さいと名刺を渡されました。那覇市壺屋“やちむん通り”の「まじる商店」さんでした。
2004年、ようやく沖縄に旅する機会を得ました。国際通り界隈は那覇銀座、チラガー(豚の頭)、イラブ―(海蛇)に驚愕しつつ牧志市場で薄い味付けの沖縄めしを済ませ、先ずは那覇市立壼屋焼物博物館へ、コンクリート打ちっ放し3階建ての立派な施設で、裏のニシヌ窯(西窯)跡も見学。“やちむん通り”入口はすぐそこ、南窯を見学、南国のゆるい空気感がたまらなく良くて、沿道のやちむん店を1軒1軒覗きながら散策する至福の一時。通りの出口近くに漸く沖縄古民家の“まじる商店”さんを見つけました。生憎、あの青年は行商旅に出ていてお会い出来ませんでした。店内は、商品も旅に出ているようで、お気に入りには出会えませんでした。小橋川太郎氏の窯には伺えませんでしたが、最後に小橋川製陶所仁王窯(故永昌氏の窯)を訪れることが出来ました。
国際通りをぶらついていると久高民藝店に出くわしました。中にはセレクトされた良質の民藝品が並び、沖縄ではお勧めの民藝店です。【本土でもそうですが、名のある民藝店に上手は流れるようです。】観光を兼ねての旅ですから長丁場ゆえ、読谷(よみたん)は次回に。
【 メモ 】
(琉球赤絵ぐい吞み:仁王窯)
寸法(mm): 長径72 x 畳付き径35 x 高さ53 (内高台13)
(琉球赤絵ぐい吞み:小橋川太郎)
寸法(mm): 長径59 x 畳付き径37 x 高さ46 (内高台17)
(*1)元来、琉球赤絵は上流階級が使用した高級品であったようです。
明末から清初にかけて、琉球と交易のあった中国南部で盛んに「呉須赤絵」が焼かれ、輸出されていたようです。また、同時期に景徳鎮民窯で焼かれた「南京赤絵」が日本に輸出され、これらの影響下で琉球赤絵は生まれます。【赤、群青、黄、緑釉を基本として独自の発展を遂げたようです。】1670年、尚貞王の命により、平田典通が陶法習得のため三年間中国に派遣され、帰国後に赤絵が琉球にもたらされます。【弟子の中曽根喜元と共に島内を巡り、釉薬の研究を重ねたようですが、】その後の伝播については不明のようです。戦前、民藝運動の柳宗悦等によって琉球赤絵は見出され、全国に知られることになります。
(*2) 上焼(ジョーヤチ):施釉陶器。 粗焼(アラヤチ):無釉陶器または泥釉・マンガン釉を掛けた陶器。
【 来歴 】
壼屋焼は、1682年王府の工芸産業振興政策の一環として、分散していた喜名焼、知花焼、湧田焼を壼屋(壺や甕を作る窯場を意味する)に統合して以来、琉球陶器の中心として、薩摩、中国、朝鮮、タイ、ベトナム、日本などから輸入した陶磁器の影響を受けながら独自の発展を遂げてゆきます。明治の廃藩置県により沖縄は日本に統合されてゆく中、官窯から民窯へと変化してゆきます。本土からの安価な陶磁器に押され、上焼も窮地に立たされてゆく過程で日露戦争向けの軍需用泡盛容器として大量生産されたり、大正時代には陶磁器商がデザインを考え、壼屋の陶工に作らせた多様な器種が生産されます。大正から昭和にかけて、日本民藝協会のメンバーが度々訪れ、沖縄の文化に大きな感銘を受けます。陶工への高い評価によって、彼等は誇りと自信を取り戻してゆきます。太平洋戦争の地上戦で甚大な被害を受けましたが、戦後に生活必需品である碗・皿・壺・瓦の不足で米軍収容所から陶工が壼屋に集められ、戦後復興は壼屋からいち早く始まりました。その中で、日本から安価な陶磁器輸入が再開され、またしても壼屋は窮地に追い込まれます。米軍向けの土産物を生産するなか、1954年「沖展」の工芸部門が設立されます。作家として立つ人達も現れ、民藝運動との繋がりも深まります。1970年代煙害問題で登り窯が使用出来なくなりガス窯に切り替わる中、登り窯に拘る陶工たちから読谷村や沖縄全土に移り住む人達が現れ、今日に至っています。
海洋交易を通じて多様なやきもの文化を育んできた土地ではありますが、前述の古窯群、徳之島のカムィ焼、八重山の赤色土器パナリ焼なども含め更なる研究成果が待たれるところです。
