Ceramics Chroniclesは、日本をベースとして陶芸シーンに起こった様々な事象を綴るパーソナルアーカイブスを目指しています。


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やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)

その十六  沖縄読谷村  2004年

琉球ガラス または今後の工芸に思うこと

( 工房風景写真は2004年時のものです。)

“やちむん”を訪ねて、読谷やちむんの里を訪れましたが、その入口にあったのは想定外の「宙吹きガラス工房 虹」さんでした。半信半疑で中へ入ると中央にUFO状の物体が横たわっていました。眺めているとレスラー風の屈強な男性から声がかかりました。「それ、ガラスを溶かす炉だよ」。フレンドリーな方で、琉球ガラスについて色々教えていただきました。こちらの琉球ガラスは太平洋戦争後、駐留米軍から排出されるコカ・コーラなどの廃ビンを回収して溶かし、再生することから生まれたものとの事。美しいガラスの色は、元の廃ビンの色をそのまま活かし、その独特な粗い気泡は、不純物を多く含んだソーダガラスの廃ビン・リサイクルに起因するとのことでした(これぞ正にSDGs)。海底から湧き上がる泡粒を通して見たような輝く海と空の碧さ、みずみずしい樹林やキビ畑の翠、そして水中珊瑚の薄紫など、それらを封じ込めた南国の自然をガラス越しに透かして見るような美しさです。
 別室に直販コーナーがあり、今回の稲嶺盛吉作ぐい呑みとロックグラスを連れ帰りました。稲嶺氏についてのPOPがあったと記憶していますが、その人物が如何なる作家であるのか熟知せぬまま工房を去りました。工房の隅で作業されていた初老の男性が稲嶺盛吉氏(注記1)であったのかも知れません。

 「琉球ガラス」は、島人(しまんちゅう)の海綿のような柔軟性と吸収力で弛まぬ工夫改良を繰り返し、戦後から沖縄本土復帰頃までは駐留米軍の需要により現在への端緒を形成することが出来ました。また、これまでの投稿で何度となく登場した民藝運動の方々の支えも手伝って、陶芸と共に日本全国に広まり、75年の海洋博を契機に増加する観光客の土産品として発展して来ました。そして、2000年前後より、民芸品、実用の生活雑器、美術品として見直され、たくましく変貌を遂げつつあるようです。琉球ガラスに惚れ直しました。

話は2021年7月時点に戻ります。この長期化するコロナ化禍で、特に観光立県を目指してインバウンド向け観光物産への依存度が高かった「やちむん」や「琉球ガラス」への影響は図り知れません。ネット上で現況を拝見すると各工房共にオンラインショップで、逞しく難局に立ち向かおうとされています。しかし、関係者のみなさんはアフターコロナの時代においても工芸の先行きは決して楽観出来ないと考えられていると思います。先日TV「カンブリア宮殿」で中川政七商店の取り組みが紹介されていましたが、波佐見焼の例をとって、各工程のサプライチェーンによって成り立っている工芸では、その一部が廃業喪失してしまうと全体の血流も止まってしまうと。職人の高齢化、後継者難、低賃金、長時間労働といった要因が解決しない限り、日本の豊かな工芸の伝統は失われてゆきます。

 以前から民藝巨匠の作品は高値売買されているのに、方や生産者には広く消費者に行き渡るよう、機能美を備えた廉価な数物が推奨され、作家を名乗らぬ共同体もあることに矛盾を感じて来ました。しかし、今回の投稿を通じて、彼らが敢えて巨匠となることで得られる影響力を使って、無名の優れた手仕事をしきりに喧伝し、全国に普及する起爆剤となって来たことに気づきました。今日のインフルエンサーです。社会的信頼を獲得した方々が「〇〇はいいよ~」と喧伝することが、どれだけ効果的であることか。 各々アプローチは異なっても、社会的信頼を獲得した企業・組織でも、デザイナーや文化人、youtuberでもよい。

 方や、作り手もプランニングから販売にいたるまでの流通を丸投げせず、異業種も含むノウハウを持った方々との積極的協業に閉鎖的にならないことが寛容と考えます。現在、伝統工芸であっても当初はイノベーションであったはずです。正に温故知新、古典を大切にしつつ、現代人の生活に根差した工芸をクリエイトする、各々の能力を補完し合うことが重要課題だと考えます。

 近年北欧ブームですが、彼の地はかなり早い時期にアーツアンドクラフツ運動を受容しつつ、長い時間をかけてデザイナー、職人、企業が協業して、モノづくりを進める“システム”を構築して来ました。その魅力は、現代生活にマッチした、多様なデザイナーと職人の作品と技術が後世へ持続的に伝承され、廉価でありながら、機能性と美を備え、消費者に行き渡るだけの供給が可能であり、生産者に充分な生活の糧と制作環境が保証される。IKEA、iittalaグループなどはその好例だと思います。わたくしも日本工芸界の現状打開への一つの参考モデルだと思います。

注記1:稲嶺盛吉氏
1954年奥原硝子製造所入所。88年に宙吹きガラス工房「虹」を設立。89年から沖展会員。94年に厚労大臣より「現代の名工」に選ばれた。2001年に現代芸術家栄光賞。02年にストックホルム平和展平和貢献賞。15年に第51回琉球新報賞(文化・芸術功労)を受賞した。 
2023年9月26日逝去、享年83歳。
(琉球新報社記事より)
心よりご冥福をお祈りいたします。

【 メモ 】
(稲嶺盛吉作 ぐい呑み)
寸法(mm): 長径75、短径68 x 畳付き径35 x 高さ 50

(宙吹きガラス工房虹製 ロックグラス)
寸法(mm): 長径85x 畳付き径67 x 高さ90

 【 琉球ガラスの来歴 】

  • 1909 (明42) 鹿児島の商人により「玉井ガラス」創業 沖縄初のガラス工場として、大正末期までランプのホヤ、蠅とり器など無色透明の生活雑器を生産。
  • 1927(昭2) 大阪の商人、前田竜五郎により「前田ガラス工場」創業。職人は主に大阪、長崎出身者であったが、阿波根宗忠、島袋栄松、奥原盛栄、真喜屋康成など沖縄出身者も力をつけていった。破損ガラスを原料として掻き集め無色透明の日用雑器や、フラスコ類などを製作して隆盛する。
  • 1944(昭19) 10月10日の大空襲で那覇市の九割が焼失。
  • 1950年代 前田竜五郎の子息正男によリ「沖縄ガラス工場」再開。米軍から投棄される廃瓶を資材としてリサイクルし、無色透明からはじめて色付きのガラスが作られた。コカ・コーラ瓶は薄い青、セブンアップは緑、ビール瓶は茶色といった具合で一色のシンプルなもので、まだ赤やピンク、黄色はなかった。
  • 1952年(昭27)、経営難から沖縄ガラス工場は奥原盛栄、島袋栄松らによって「合資会社奥原硝子製造所」として再出発。
  • 1956年 (昭31) 16才の少年三人、桃原正男(とうばる まさお)、稲嶺盛吉、大城孝栄が奥原硝子製造所に入社。三人は後に「現代の名工」となり琉球 ガラスを牽引してゆくことになる。
  • 1959年 (昭34) 奥原硝子製造所から独立した宮城嗣敏は、「牧港ガラス」を設立。稲嶺盛吉、大城孝栄もここで働く。
  • 1960年代、基地依存経済は続いていたが、日本政府の規制緩和により本土からの沖縄観光客が増加し、沖縄土産としての陶器、ガラス工芸品が重要な産業と位置付けられる。
    また、復帰前から日本各地で開催されていた「沖縄物産展」もこれらの工芸の認知に貢献した。
  • 1962年 (昭37) 沖展の工芸部門にガラスの部が設けられる。この時期に民藝ブームが起こる。この頃、沖縄の工房に度々逗留した浜田庄司により、「焼物は壼屋、ガラスは奥原」と本土に喧伝され、各地の民藝店に琉球ガラスが並ぶようになる。
  • 1965年(昭40) 大城孝栄は独立し、宜野湾に「国際硝子工芸社」を設立する。
    同年 宜野湾で修理工をしていた大江安蔵は異業種よりガラス業界に参入し「琉球硝子製作所」を設立。沖縄で初めて赤色ガラスを製作し、ガラス製の装飾を施した。
  • 1968年(昭43) 稲嶺盛吉は独立し、中頭郡西原に「なにわガラス」を、1988年には宜野湾大山、その後88年に読谷村に「宙吹きガラス工房 虹」を設立。
  • 1972年(昭47) 沖縄本土復帰。復帰以前は米軍関係者が沖縄に持ち込んだメキシコ産ガラス器の破損代替品として、またオーダーメイドや米軍兵の沖縄土産として需要を伸ばして来た。また、ハワイ、フィリピン、グアムの米軍基地PXや、米国本土輸出に販路を拡大して来たが、本土復帰の頃から米軍需要が減り、ガラス関係者は苦境に立たされる。
    また、この頃より廃瓶から本土の原料ガラスに移行する工場が増えてゆく。
  • 1975年(昭50)本土復帰記念事業として「沖縄国際海洋博覧会」開催。これを契機に「青い海」、「南国」のイメージが定着し、観光客は急増して行く。
  • 1983年(昭58) 70年代の2度のオイルショックによって、苦しい工場経営が続く中、人件費削減と安定供給を目的として、「琉球ガラス工芸協同組合」が結成され、沖縄全土8社の内、中南部の6社が合併する。
  • 1985年(昭60) 「琉球ガラス工芸協同組合」の組織改変により4社で「琉球ガラス工芸協業組合」を設立。5月には組合により糸満市福地に「琉球ガラス村」をオープン。琉球ガラスの一大拠点となる。
  • 1990年代後半以降、個人工房、小規模ガラス工房が増加し、それぞれに特色をだしつつ、沖縄土産品から、民芸品、生活雑器、美術品としての琉球ガラスを模索し始める。

参考文献: 一橋研究第37巻3・4合併号「琉球ガラスの文化史」 清水 友里子著
(清水氏が当論文に著わされた「琉球ガラス」の全体像及び文化史的成果に心より敬意を表するものです。)


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