やきもの紀行 (旧ぐい吞み旅)
その十九 徳島県 鳴門 2001年頃
阿波の大甕 大谷焼












屋島で絶品釜揚げうどんに大満足して、いよいよ阿波徳島へ出発です。
阿波の鳴門といえば渦潮が有名、ひと昔前までは遊覧船での観潮一本でしたが、大鳴門橋完成後は、遊歩道「渦の道」が併設されており、展望室では思わず足のすくむガラス床に立ち、眼下のダイナミックな大渦を満喫出来きるお勧めスポットです。
海岸部から内陸に向かってひた走り、大谷陶郷に入るや小高い丘に建つ巨大な構造物が目に飛び込んできました。全長40m、幅15m、8連房の「大谷焼森窯登窯」(現登録有形文化財)でした。大物陶器を焼いてきた大谷焼ならではの現存日本一の登窯です。
先ず、森陶器さんにお伺いしました。実は名工森浩さんにお会いするのが、今回訪れた目的でもありました。河井寛次郎、濱田庄司氏等の指導を受けた大谷焼のリーダー的存在だったそうです。
残念ながら森浩氏はご病気で既に永眠されていました。奥様からお話をお伺いすることが出来ました。「とにかく轆轤が上手なひとでした。」と気持ちのこもった一言が印象的でした。少なくなった遺作を拝見するにつけ、大物陶器で名を馳せた窯元でありながら、小物の轆轤の正確さ・丁寧さに驚きました。焼き締めのぐい呑みも浩氏作は僅かしか残っておらず、奥様が惜しみつつ手放してくださったことを思い出します。大谷焼は焼き締め炻器ですが、浩氏作は薄造りで大谷特有の黄金色の窯変が現れ、六古窯とは趣を異にする繊細な景色を呈しています。
傍らに並んだ鉄釉のシリーズが旧来のものとは異なり、シンプルなデザインでどこか民藝の内包していたモダンデザインを想起するものでした。濱田、河井両氏の影響の産物でしょうか。その中から特徴的な白釉と鉄釉の徳利をいただきました。
奥様によると、大甕は現在でも焼酎貯蔵用の注文があるとの事。阿波藩は「藍」を殖産興業のドル箱として他国にも名を馳せた土地柄、大谷焼も創業に藍商が関係しており、隆盛時期から藍貯蔵用の大甕需要から大物陶器生産にシフトしていったと考えています。二人一組となり、一人が寝転んで足で轆轤を回し、もう一人が太い粘土の自重を巧みにコントロールしながら輪積みする独特な「寝轆轤」技術もそこから工夫されたのでしょう(この様子は、森陶器さんの栞の写真を添えておきます。
これまで全国の窯場を巡って来ましたが、思いのほか各地で民藝運動から影響を受けて生き延び、更に若手により現代生活にマッチした工芸品へのチャレンジが続けられているのを目にして来ました。私は熱烈な民藝信奉者ではありませんが、民藝運動の残した歴史的功績と意義に興味が尽きません。特に古臭いイメージを持たれがちですが、内包している「新しき美の創造」というテーマは不変的であり、常に未来を思考しているように思えます。今や民藝を含め世界を覆うアーツ・アンド・クラフツ運動の起源に遡って、ラスキン、モリス、マッキントッシュ、アールヌーボー、アールデコ、各分離派、バウハウス、モダンデザイン、ポストモダン等々の潮流の先の世界を見てみたいという思いを強くしています(残り時間は少ないのですが)。
【 メモ 】
(大谷焼森浩作酒盃)
寸法(mm):長径66x 畳付き径33 x 高さ42(内高台5)
(大谷焼徳利:鉄釉・白釉2種)
寸法(mm): 口径32x畳付き径53x 高さ135(内高台0)
【来歴】
大谷焼といえば民窯として、特に大甕造りが有名ですが、当初藩窯としての磁器焼成期と200年続く民窯期の二画期がありました。納田家(のうだけ)に伝わった「陶器由来書」によると、安永9年(1780)頃、九州(豊後の国)より四国八十八ケ所霊場にやって来た焼物細工師納田文右衛門親子が大谷村を訪れた際に陶技を披露し、時の庄屋森是助が素焼窯を築かせ、蟹ケ谷の赤土を使って雑器類を焼いたのが始まりということになっています。近来、地元研究家豊田進氏の調査により、地元で文右衛門の墓とされてきた東林院内の「阿波陶祖の碑」は、鳴門の対岸淡路の藩窯に招かれた萬七という九州の焼物職人の墓であり、陶祖は萬七であることが判明しています。
また、文右衛門は阿波藩に豊後藩窯の秘伝を漏らしたという咎で豊後に連れ戻され、磔刑に処されたとう後日談が伝説として残っているようですが、通説では文右衛門の評判が11代阿波藩主蜂須賀治昭公の耳に入り、藩窯として笠井惣左衛門と桑原利九郎が資金・実務を担当し、磁器を焼成することになります。その際、九州から陶工を多数雇い入れ、「黒焼物由来記」によると加賀文五郎と川口屋忠平に大金を渡して、肥前細工人、焼き方鍛錬荒し子、薩摩・日向のイス灰、天草陶石、長崎の絵薬などを調達させ、陶工は27人にのぼったとの事。天明元年(1781)に初釜を焼きましたが、窯の構造上の欠陥、陶石の品質不良などにより焼き損じが続出し、不採算により天明3年(1783)に廃窯となります。窯跡発掘調査により大量の民窯陶片の下から出土した染付磁器片の写真をみますと、高台内に「大」の銘が入った古伊万里写しの焼物だったようです。これが磁器焼成の時期です。
その後、廃窯を惜しんだ藍商人の加賀文五郎が藍商の旅先で知り合った信楽の陶工忠蔵を連れ帰り、納田文右衛門の弟平次兵衛に技術を伝授させ、天明4年(1784)に民窯としての歴史が始まります。その後、納田窯は明治36年まで続き、今日の元山窯に初代平次兵衛より10代引き継がれています。かつて民藝の河井寛次郎をして「大谷の大甕は日本一」と称賛され、濱田庄司等も現地を訪れて指導に当たったようです。その流れを更に進化させた現代的デザインを試みる若き窯元さんも現れています。
平成15年(2003)には、経済産業大臣指定「伝統的工芸品」に指定されています。
参考文献
「日本の藩窯(西日本編)」 彦根城博物館編
「大谷焼の起源と沿革」 阿波大谷焼窯元森陶器栞
「大谷焼」 Wikipedia編
「やきものの旅」 宮崎修二朗著 保育社刊
